奈良時代(710年〜794年)は、日本で初めて本格的な都「平城京」が置かれた時代です。この時代には、律令政治の整備や仏教の広まり、そして日本初の正史『日本書紀』や『万葉集』の成立など、日本文化の礎が築かれました。
この記事では、「飛鳥時代からなぜ奈良時代に移ったのか」「奈良時代には何が起きたのか」「平安時代にはどう変わっていったのか」という流れを、わかりやすくまとめて解説して
飛鳥時代から奈良時代へ|なぜ都が変わったのか?
飛鳥時代(592〜710年)は、改革が進んだ一方で、「都が落ち着かない時代」でもありました。実際、飛鳥時代には短期間で都が何度も移されており、「遷都」が繰り返されたのが大きな特徴です。
なぜそんなに都を移したの?
主な理由は以下の通りです:
① 天皇の死による「穢れ(けがれ)」の意識
当時の人々は、死を穢れ(けがれ)と考え、天皇が亡くなるとその住居や場所に不吉なものが宿ると信じていました。そのため、天皇が崩御すると、新しい天皇は別の場所に都を移す必要があるとされたのです。
② 権力闘争や政変の影響
飛鳥時代は中央政権の体制がまだ不安定で、蘇我氏や中臣(藤原)氏など、有力豪族たちの勢力争いが激しく行われていました。政変が起きるたびに、政治の中心を動かすことで勢力バランスを再調整しようとした側面もあります。
③ 国家の形を模索していた過渡期
大化の改新(645年)など、大きな政治改革が進められた時代でもありました。中国(隋・唐)を手本にした律令制度の導入などが試みられ、都の設計や運営も模索段階だったため、試行錯誤の意味で都を動かすことがあったと考えられます。
だからこそ「平城京」が重要だった
こうした不安定な状況を終わらせ、国家の安定を図るために建設されたのが、710年に元明天皇が遷都した平城京です。
初めて長期間にわたって固定された本格的な都
唐の長安を手本に、政治・経済・宗教を集約できる都市計画
飛鳥時代の試行錯誤を経て、国家としての基盤を築こうとしたのが、奈良時代の幕開けなのです。
いきます。
奈良時代って何があったの?|政治・宗教・文化の発展
奈良時代は、律令制(りつりょうせい)に基づく中央集権国家の体制を確立した時代です。以下のような重要な出来事がありました。
政治:
藤原氏が権力を拡大(藤原不比等(ふじわらのふひと)による支配体制の確立)
政府の仕組みが整備され、地方の統治も強化
宗教:
仏教が国の宗教として保護される
聖武天皇が「東大寺」や「大仏」を建立
国分寺・国分尼寺の設置(全国の拠点に仏教を広める)
文化:
『古事記』『日本書紀』の編纂 → 日本の神話や歴史を記録
『万葉集』の成立 → 最古の和歌集、庶民の心も詠まれる
藤原氏の政界進出
中臣鎌足から不比等へ|藤原氏が権力を手にするまで
8世紀初頭、皇族や中央の有力貴族たちの間では、まだある程度の勢力均衡が保たれていました。しかし、そのなかで次第に頭角を現していくのが**藤原不比等(ふじわらのふひと)**を中心とした藤原氏です。
藤原氏のルーツは、飛鳥時代に大化の改新を主導した中臣鎌足(なかとみのかまたり)にさかのぼります。彼は中大兄皇子(のちの天智天皇)と協力して蘇我氏を打倒し、中央集権体制の構築に大きく貢献しました。その功績により、鎌足の死後には「藤原」の姓が贈られ、ここに藤原氏が誕生します。この時点で藤原氏は、改革の功労者として朝廷内でも名門として認識されはじめました。
奈良時代に入ると、鎌足の子である藤原不比等が藤原氏台頭のキーパーソンとなります。不比等は**大宝律令(たいほうりつりょう)や養老律令(ようろうりつりょう)**の編纂に関わり、律令制度の整備を主導。朝廷の実務を掌握し、政権中枢で強い影響力を持つようになります。
さらに彼は、自らの娘を天皇や皇太子に嫁がせることで、「外戚(がいせき)」=天皇の母方の親族という立場を獲得。これによって、天皇の後見人として実権を握るという政治的地位を確立していきます。
不比等の死後は、その4人の息子たちがそれぞれ南家・北家・式家・京家を名乗り、藤原一族は「藤原四家」として分立します。なかでも、のちに平安時代で絶大な権勢を誇るのが**藤原北家(ほっけ)**です。
奈良時代後期には、不比等の孫にあたる**藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)**が登場。仲麻呂は「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、政権の実質的な指導者として活躍しますが、後に反乱を起こして敗死しました。
「藤原氏はこうして権力を握った|不比等から始まる摂関政治の基盤」
日本史の中での位置づけとして重要なのは藤原不比等が藤原氏を「天皇を支える一族」としての地位にまで高めたこと日本史において特に重要なのは、藤原不比等(ふじわらのふひと)が藤原氏を「天皇を支える一族」へと押し上げたことです。
不比等は、自らの娘を天皇や皇太子に嫁がせることで、外戚(がいせき)=天皇の母方の親族として政権中枢に入り込みました。これにより、藤原氏は制度の外からではなく、制度の内側から政治を動かす立場を確立したのです。
この仕組みは、のちの摂関政治(せっかんせいじ)へと発展していきます。
摂関政治とは、天皇が幼い間は摂政(せっしょう)、成人後も**関白(かんぱく)**として藤原氏が政務を取り仕切る政治体制のことです。
つまり、不比等の時代にすでに、「天皇の血統」と「藤原氏の実権」が結びつく政治構造の基盤ができあがっていたのです。
さらに、奈良時代末期に藤原不比等の4人の息子たちが南家・北家・式家・京家に分かれ、「藤原四家(しけ)」が成立します。その中でも最終的に最も権力を握ったのが、**藤原北家(ほっけ)**です。
この北家からは、
- 藤原道長(ふじわらのみちなが)
- 藤原頼通(ふじわらのよりみち)
といった平安時代の摂関政治を象徴する人物が登場し、11世紀に至るまで朝廷の実権を事実上独占することになります。
不比等の死と勢力の推移
長屋王から橘諸兄まで|権力の座を巡る激動の20年
不比等の死後しばらくして台頭したのが皇族出身の政治家**長屋王(ながやおう)**でした。彼は天武天皇の孫で、藤原四家の抑え役として政権を握りますが、729年に藤原四家との権力争いに敗れ、長屋王の変によって自害に追い込まれます。
その後、藤原四家が勢力を拡大しましたが、天然痘の流行により相次いで死去。藤原氏の一時的な失脚後、次に政権を担ったのが**橘諸兄(たちばなのもろえ)**です。彼は聖武天皇の信任を得て、藤原氏に代わって政権を主導しました。
🌀橘政権の終焉と、藤原仲麻呂の台頭(8世紀中頃)
橘諸兄(たちばなのもろえ)の政権が終わったあと、中央政界で急速に勢力を伸ばしたのが、**藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)**です。彼は大化の改新を主導した中臣鎌足の孫であり、藤原不比等の血を引く名門の出身でした。
仲麻呂は光明皇太后(聖武天皇の皇后・藤原光明子)の信任を受け、政界の中枢へと進出。諸兄の子・**橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)**が彼を倒そうと反乱を企てますが、これを未然に察知し、逆に壊滅させました。
その後、仲麻呂は自らの意に沿う**淳仁天皇(じゅんにんてんのう)**を擁立し、名を「恵美押勝(えみのおしかつ)」と改めます。彼は太政大臣にまで上り詰め、経済的・政治的な特権を独占する、いわば“最強の政治家”として頂点を極めました。
しかし、後ろ盾だった光明皇太后が亡くなると、仲麻呂の立場は一変。淳仁天皇と対立していた**孝謙上皇(のちの称徳天皇)**は、自らの看病にあたっていた僧・**道鏡(どうきょう)**を寵愛し、政界に引き入れます。
これに危機感を覚えた仲麻呂は、764年にクーデターを決行しますが、孝謙上皇(称徳天皇)側の先手に敗れ、討たれました。
🧘僧・道鏡の時代とその終焉
仲麻呂失脚後、急速に力を握ったのが、僧道鏡です。彼は称徳天皇(孝謙天皇の再即位)の絶大な寵愛を受け、政治の実権を掌握。
天皇に代わって国家を治める「法王(ほうおう)」にまで登り詰め、ついには「自らが天皇に即位しようとした」とされるほどの存在となりました。
しかし称徳天皇の死後、その後継である光仁天皇によって道鏡は失脚。下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)に左遷され、政界から完全に退きました。
このように、奈良時代は藤原氏を中心に、皇族・貴族・僧侶などが複雑に絡み合う政争の時代でもありました。
奈良時代から平安時代へ|なぜまた都を変えたのか?
奈良時代の終わり、784年に桓武天皇は平城京から長岡京へ、そして794年には平安京(現在の京都市)へと都を移しました。この遷都によって、奈良時代は幕を閉じ、平安時代が始まります。
では、なぜ天皇は都を移す決断をしたのでしょうか?
その最大の理由は、奈良の仏教勢力の政治への干渉を避けるためでした。
仏教の広まりと「宗教国家化」する奈良
奈良時代は仏教が国家の保護を受けて急速に広まり、多くの巨大寺院が建てられました。とくに東大寺や興福寺といった国家寺院は、信仰の場であるだけでなく、政治的にも大きな影響力を持ち始めていたのです。
僧侶が国家運営に口を出すようになる
天皇の病や天災の原因を「神仏の怒り」として政治に干渉
仏教界の実力者が朝廷の人事や政策にまで関与する事態に
特に有名なのが、東大寺の「大仏建立」を推し進めた行基や、神格化された僧侶道鏡(どうきょう)です。
僧・道鏡の事件が象徴的だった
道鏡は称徳天皇に取り入って絶大な権力を手に入れ、ついには「天皇になろうとした」とも言われるほどでした(※宇佐八幡宮神託事件)。
この事件は、仏教勢力が政治の中枢にまで入り込んだことを象徴しています。
桓武天皇は、こうした仏教の影響力が国家の健全な運営を妨げていると考え、政治と宗教を分離するため、仏教界が根付いていた奈良(南都)を離れる必要があると判断したのです。
新しい都=新しい時代のスタート
また、その他にも遷都の理由はいくつかありました。
平城京の地理的問題:湿地が多く衛生面に課題があった
災害・飢饉の多発:社会不安の象徴とされていた
政治刷新の必要性:新たな時代の象徴としての都が求められた
こうして新天地・平安京が建設され、仏教の影響力を意図的に制限した新しい首都が誕生しました。以降、平安京では天皇中心の政治が再構築され、「貴族文化」としての平安時代が始まっていきます。
まとめ:奈良からの脱却=宗教政治との決別
奈良時代の宗教と政治が深く結びついた状況を断ち切り、新たな秩序を打ち立てようとしたのが平安遷都の核心です。
桓武天皇は単に場所を変えただけではなく、「国家のかたち」を根本から変えようとしたのです。
この決断がなければ、後の日本の王権や文化はまったく違ったものになっていたかもしれません。
まとめ|奈良時代は「日本らしさ」の原点
奈良時代は、日本という国家が法と制度を整え、仏教と共に文化を開花させた重要な時代でした。
飛鳥時代の改革の集大成として平城京に都が置かれた
律令政治や仏教文化が制度として整えられた
平安時代へとつながる「日本らしい国家」の土台が作られた
この時代を知ることは、日本という国の原点を知ることにつながります。仏教建築や文学、制度の始まりをたどれば、今の日本のルーツが見えてきます。
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