「南北朝時代」と聞いて、ピンと来る人は多くないかもしれません。しかしこの時代は、日本の歴史の大きな転換点。皇室が二つに分かれて対立し、全国各地で武士たちが複雑に動いた時代です。
この記事では、鎌倉時代の終わりから南北朝の争い、そしてその後の室町時代への移行までを、初めてでもわかるように丁寧に解説します。
1. 鎌倉時代の終わり:幕府の崩壊と後醍醐天皇の動き
鎌倉幕府は約150年間にわたって武士による政権を維持してきましたが、やがてその支配体制に綻びが生まれます。原因の一つが「元寇(蒙古襲来)」です。幕府は莫大な費用をかけて防衛しましたが、恩賞が不十分で、御家人たちの不満が爆発しました。
そこに現れたのが後醍醐天皇。天皇親政(天皇が政治を行う体制)を理想とし、幕府の打倒を企てます。1333年、足利尊氏や新田義貞ら有力武士の協力により鎌倉幕府は滅亡しました。
2. 建武の新政とは?理想と現実のギャップ
後醍醐天皇は幕府滅亡後、武士中心の政治ではなく、天皇中心の新しい政治=建武の新政を始めます。
しかし、この新政は多くの武士たちの不満を招きました。なぜなら、恩賞が公平に与えられず、武士の意見もほとんど反映されなかったからです。特に活躍した足利尊氏が冷遇されたことが大きな火種となりました。
3. 南北朝時代の始まり:天皇家が二つに分かれる
武士の信頼を失った後醍醐天皇に対し、足利尊氏はついに離反し、京都に光明天皇を擁立。これにより、天皇家は以下のように分裂します。
- 南朝(後醍醐天皇、吉野に拠点)
- 北朝(光明天皇、京都に拠点)
この二つの朝廷が並立する時代を**南北朝時代(1336年〜1392年)**と呼びます。
しかしなぜそもそもこのように2つの系統が生まれてしまったのでしょうか。
発端:後嵯峨天皇の譲位と二人の皇子
鎌倉時代の中ごろ、第88代 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、在位の後半になると皇位をめぐる問題を抱えるようになります。後嵯峨天皇には二人の有力な皇子がいました。
後深草天皇(ごふかくさてんのう) … 第一皇子
亀山天皇(かめやまてんのう) … 第二皇子
後嵯峨天皇はまず、第一皇子の後深草天皇に皇位を譲りますが、後に退位した後、今度は第二皇子の亀山天皇の子を天皇に即位させました。これが火種になります。
天皇家の二分化:持明院統と大覚寺統の誕生
この決定により、皇位継承権を持つ皇統が次のように二つに分裂しました。
持明院統(後深草天皇を祖とする系統)
皇居の一つ「持明院」を拠点にしていたことが名前の由来
比較的北朝的な立場で、鎌倉幕府に接近
大覚寺統(亀山天皇を祖とする系統)
皇居「大覚寺」を拠点にしていた
南朝的、後醍醐天皇の祖となる系統
この分裂は、皇統争いだけでなく、政治と宗教、幕府との関係性も絡む複雑な争いに発展していきました。
なぜ争いが深刻化したのか?
🔸背景① 鎌倉幕府による介入
当時の実権を握っていたのは鎌倉幕府。幕府としては、皇室が一つにまとまるより、分裂していた方が支配しやすいという思惑がありました(諸説あり)。そのため、幕府はあえて双方の皇統に気を配りながら、交互に皇位を譲る「両統迭立(りょうとうてつりつ)」制度を導入します。
🔸背景② 仏教と院政の勢力争い
持明院統と大覚寺統はそれぞれ別の貴族・僧侶グループと結びつき、後ろ盾を得ていました。たとえば、院政(上皇による政治)の影響力や、仏教寺院(天台・真言など)の利害もからみ、単なる皇位の問題ではなくなっていきます。
両統迭立の開始と失敗
幕府はこの争いを抑えるために、1317年ごろから「両統迭立」という方式をとりました。これは、
持明院統と大覚寺統が、交互に天皇を出す
という妥協案でした。しかし、これには致命的な欠点がありました。
交替の基準が曖昧(何年ごと?どの系統の誰?)
一方が約束を破れば制度が崩壊
両統とも「自分こそ正統」と譲らない
その結果、この制度は安定せず、後醍醐天皇(大覚寺統)の代に破綻します。後醍醐天皇は交替の時期が来ても退位せず、自ら政治を行おうとしたことで、**元弘の乱(1331)**が起き、南北朝の動乱へと発展していくのです。
なぜ二派に分かれたのか?
天皇家が二つに分かれた最大の原因は、「皇位継承をめぐる父子・兄弟間の争い」です。しかしその背後には、
幕府の権力との関係(政治的思惑)
仏教勢力・院政の影響
支持する貴族や武士の派閥争い
といった要素が複雑に絡み合っていました。
結果として、後嵯峨天皇の一つの決定が、60年以上にわたる南北朝時代の引き金となってしまったのです。
4. 全国に広がる南北朝の争い
南北朝の対立は、単なる皇位争いにとどまらず、各地の武士たちを巻き込んだ全国的な内乱となります。南朝は「正統な天皇」を名乗り、忠義を重んじる武士たちの支持を得ます。一方の北朝は、武士の実力者である足利尊氏の軍事力を背景に勢力を拡大していきます。
両朝の争いは約60年も続き、日本各地で合戦が繰り返されました。これが各地の守護や国人の力を強め、のちの戦国時代につながる要因ともなります。
5. 足利尊氏の台頭と室町幕府の成立
北朝を支持した足利尊氏は、1338年に征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開きます(室町幕府の名前は、京都の室町に政庁が置かれたことに由来します)。
しかし、幕府は設立当初から不安定でした。南朝との戦い、将軍家内の争い(直義と尊氏の内紛)、さらに地方の武士との対立など、課題が山積みでした。
6. 南北朝の統一とその後
60年近く続いた南北朝の争いは、1392年、足利義満の調停によって終結します。義満は南朝の後亀山天皇から三種の神器を譲り受け、北朝の後小松天皇に皇位を継がせる形で統一を実現しました。
しかし、この統一は南朝側の一方的な譲歩であり、南朝を正統とする意識は後世にも残りました。明治時代の皇国史観では、南朝を「正統」とする見方が定着します。
なぜ後亀山天皇は三種の神器を足利義満に渡し、北朝の後小松天皇に皇位を継がせたのでしょうか。
その理由を以下に解説します。
🌿背景1:南朝の軍事的・経済的な劣勢
南北朝の内乱は約60年にわたり続きましたが、次第に南朝は劣勢に立たされていきました。初期こそ楠木正成や新田義貞らの活躍で勢力を保ちましたが、彼らの戦死以後は有力な武将が減少。経済的基盤も弱く、南朝は山間部(吉野など)に追いやられ、支持基盤も限定的でした。
🌿背景2:足利義満の圧倒的な政治力と外交力
一方で、北朝を支える室町幕府は足利義満の時代に最盛期を迎えます。義満は南朝との内戦を終結させることで国内の安定を図り、将軍権力を強固にしようと考えていました。
義満は軍事的圧力だけでなく、和平交渉という形を取って南朝に接近。形式上は「両統迭立(りょうとうてつりつ)=南北交互に皇位を継ぐ」という約束を掲げていました。
🌿関連する出来事:1392年「明徳の和約」
この和約こそが、南北朝統一を決定づけた歴史的出来事です。
南朝側:後亀山天皇
北朝側:後小松天皇
調停者:足利義満
義満は後亀山天皇に「一時的に譲位すれば、将来南朝の系統に皇位が戻る」と説得しました。これにより後亀山天皇は神器を京都に戻し、北朝の後小松天皇に譲位します。
しかし──
この「両統迭立」の約束は守られず、以後皇位は北朝の系統に固定されました。
🌿後亀山天皇の決断は「現実的な和解」だった?
後亀山天皇の決断は、「正統」を主張する立場を貫くには痛みを伴うものでしたが、長年の戦乱を終結させ、国内の混乱を収めるという大義と現実主義的判断に基づいたものと考えられます。
7. まとめ:南北朝時代が日本史に残したもの
南北朝時代は、天皇という絶対的な存在が分裂し、武士の力がますます強くなっていく転換期でした。次のような点で、日本史に大きな影響を与えました。
天皇家の「正統性」の概念が深まる
武士の政治力が飛躍的に強化される
守護や地頭の自立化が進み、戦国時代への布石となる
このように、南北朝時代はただの皇位争いではなく、日本の中世政治の骨格をつくる重要な時代なのです。
あとがき:歴史の「つながり」を感じよう
鎌倉時代から南北朝、そして室町時代へ。一見すると断絶しているように見える時代も、よく見れば人々の想いや権力の移り変わりがつながっているのがわかります。
今も残る南朝ゆかりの地や室町幕府関連の史跡を訪れてみると、教科書では味わえない歴史の生きた息吹を感じられるかもしれません。
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