MENU

【応仁の乱 簡単に解説】なぜ起きた?誰が関わった?戦国時代を生んだ大乱の真実

「応仁の乱って、名前は知ってるけど、結局なにが起きたの?」
「誰と誰が争ったの?なんでそんなに長引いたの?」

そんな疑問に応えるため、この記事では「応仁の乱を簡単に、でも詳しく」解説します。
きっかけ・関係した人物・経過・その後の影響まで、一気に理解できる内容です。

目次

◆ 応仁の乱とは?【まずはざっくり】

  • 時期:1467年〜1477年(11年間)

  • 場所:主に京都

  • 対立構図:東軍(細川勝元(ほそかわかつもと)) vs 西軍(山名宗全(やまなそうぜん))

  • 背景:将軍の後継争い+有力大名の勢力争い

応仁の乱は、室町時代後期に起こった全国規模の内乱で、最終的に明確な勝者がいないまま終わります。
しかしこの戦乱をきっかけに、室町幕府の権威は崩壊し、戦国時代へと突入する大きな転機となりました。

◆ 応仁の乱が始まったきっかけは?

きっかけは、以下の3つの争いが同時に絡んだからです。

① 将軍の後継者争い

8代将軍・**足利義政(よしまさ)**には後継者がいませんでしたが、のちに子(義尚(よしひさ))が生まれます。一方で義政の弟・**義視(よしみ)**も後継者候補でした。

➡ この「義尚 vs 義視」の将軍継承争いがまず発端となります。

🔶 争いの発端は「子がいなかった」こと

8代将軍・足利義政(よしまさ)は、将軍に就任してしばらくの間子どもがいませんでした。そのため、やむなく弟の足利義視(よしみ)を後継者として迎え入れたのです。義視もそれを受け入れ、次期将軍としての立場を整えていきます。

🔶 ところが、その後に息子・義尚が誕生(1458年)

義政が義視を後継者に定めた後、なんと正室・日野富子との間に実子(義尚)が誕生します。

本来なら、後から生まれた子どもが自動的に後継となるのが自然に見えますが、当時はすでに「義視=次の将軍」という流れが幕府内で固まりつつありました。

🔶 正室・日野富子が義尚を将軍にしたがる

義尚の母・日野富子は、非常に強い政治力を持った人物で、自分の子(義尚)を将軍にしたいと望みます。
そこで、義政に圧力をかけて義視を排除しようとします。

これにより、将軍家内部で「義視派」と「義尚派」の争いが発生。やがて幕府全体を巻き込んだ権力闘争へと発展していきました。

🔶 義政はあいまいな態度を取り続けた

さらに事態をややこしくしたのが、将軍・義政本人の優柔不断な態度です。

  • 義視を後継とした後に義尚が生まれても、すぐに義視を廃さなかった

  • 義視との関係も完全には断ち切らず、両派の対立を放置

  • 自身は政治よりも文化(東山文化)に傾倒していた

これにより、義政のリーダーシップの欠如が争いを深刻化させてしまいました。

🔶 結果:応仁の乱へ発展

この義視・義尚の争いに、有力守護大名たち(細川勝元・山名宗全)がそれぞれ加担し、結果として**応仁の乱(1467年)**が勃発したのです。

✅ なぜ義尚と義視で争いになったのか?

理由内容
① 義政に子がいなかった義視を正式に後継者に決定していた
② 義尚が後から誕生実子なので日野富子は将軍にしたかった
③ 義政の優柔不断義視を廃嫡せず、両者の対立を放置
④ 有力大名の介入細川勝元・山名宗全が争いを後押し

義尚と義視の争いは「将軍家の家族内の問題」が、「幕府の権力構造の危機」と「大名同士の対立」と結びついたことで、ついには日本中を巻き込む大戦乱・応仁の乱へとつながったのです。

② 有力大名の権力争い

将軍争いを支援する形で、2大有力守護大名が対立します。

名前所属立場
細川勝元(ほそかわ かつもと)東軍義視(弟)を支持
山名宗全(やまな そうぜん)西軍義尚(息子)を支持

この2人の争いが、各地の大名を巻き込んで全国に広がっていきました。

③ 畠山(はたけやま)・斯波(しば)家の家督争い

さらに、将軍家の側近である畠山氏や斯波氏でも後継ぎ争いが起き、幕府の中で権力がバラバラになります。

➡ 幕府の指導力は完全に失われ、「統治する側がまとまらない」という深刻な政治混乱が背景にありました。

◆ 主な登場人物を簡単に紹介

名前 説明
足利義政 8代将軍。争いの火種を作った当人だが争いには消極的。文化人でもあり「東山文化」の育ての親。
足利義尚 義政の子。西軍が推す将軍候補。
足利義視 義政の弟。東軍が推す将軍候補。
細川勝元 東軍のリーダー。冷静で政治力が高い守護大名。
山名宗全 西軍のリーダー。かつて「六分の一殿」と呼ばれるほどの大勢力を持つ。
畠山政長・義就 畠山家の家督争いで争う二人。これも乱の一因に。

◆ 応仁の乱の経過をざっくり3ステップで

▶ ① 1467年:京都で戦争勃発

東西両軍が京都に陣を敷き、戦闘が始まります。京都は焼け野原となり、皇居までもが被害を受けるほど。

▶ ② 全国に波及

各地の大名も東西どちらかに属し、全国的な内戦状態に突入。もはや「将軍争い」は名目であり、実態は大名同士の権力争いでした。

▶ ③ 1477年:終結…でも勝敗なし

山名宗全と細川勝元がともに死去し、両軍は戦意を失って自然に戦が収束。しかし将軍家の威信は失墜し、幕府による統治はほぼ崩壊します。

応仁の乱(1467〜1477年)が終わった理由は、明確な勝敗がついたからではなく、争いを続ける意味が薄れていったことが大きな要因です。つまり、「戦争に勝って終わった」のではなく、疲弊・指導者の死・戦意喪失によって“自然に終わった”戦だったのです。

以下に、その「終結のきっかけ」と背景をわかりやすく解説します。

✅ 応仁の乱が終わった理由・きっかけ

① 両軍の大将が相次いで死去

  • 1467年に始まった応仁の乱ですが、

    • 西軍の山名宗全は、1467年の戦開始から2年後の1473年に死去

    • 東軍の細川勝元も同年(1473年)に死去

両軍の指導者を失ったことで、戦を続ける明確な指揮系統が崩れ、乱を主導する人物がいなくなりました

② 戦いに疲れ果てた武士・庶民

11年にわたる戦乱は、京都を中心に人も町もボロボロにしました。
両軍ともに兵力・財力を失い、これ以上戦っても得るものがない状態になっていきます。

庶民も武士も疲弊しきっていたため、誰も積極的に戦を続けたがらなかったのです。

③ 利益のない戦いになっていた

もともとは将軍の後継争いや大名同士の勢力争いが原因でしたが、争点が曖昧になり、勝っても領地や地位が得られない戦いになっていました。
つまり、「何のために戦っているのか分からなくなった」状態でした。

④ 戦乱は地方へ分散していった

京都での戦いが下火になると、戦火は地方へと移っていきます
各地で戦国大名たちが自立しはじめ、中央(幕府)の戦いには関心が薄れ、それぞれの領地での戦いに移行していきました。

✅ 応仁の乱が終わった本当の理由とは?

要因 内容
指導者の死 山名宗全・細川勝元が1473年に相次いで死去
戦意喪失 長期戦で兵士・庶民が疲弊、戦意を失う
利益の喪失 戦っても得るものがなくなった
地方分散 大名たちは自領の統治に集中し始めた

応仁の乱は、明確な「終戦のきっかけ」があったわけではなく、戦の目的を失ったまま、戦意が尽きて自然に終わった戦争でした。
それゆえに、誰も勝者にならず、代わりに残ったのは「幕府の権威の崩壊」と「戦国時代の幕開け」だったのです。

◆ 応仁の乱終結後

乱のさなかに、義尚は成長し、1473年には義政から将軍職を譲られ、第9代将軍に就任します。義視は敗れずとも将軍にはならず、政治の表舞台から退く形になりました。

◆ 応仁の乱の影響は?

応仁の乱が与えた影響は非常に大きく、日本の歴史を分ける大事件となりました。

✔ 室町幕府の弱体化

将軍の権威が地に落ち、各地の守護大名が勝手に行動するようになります。

✔ 戦国時代の幕開け

統一された政治体制が崩れ、群雄割拠の「戦国時代」が始まります。

✔ 京都の荒廃と文化の転換

京都は壊滅的な被害を受け、文化の中心地が地方に移る契機となりました。

◆ まとめ|応仁の乱とは何だったのか?

項目 内容
発生年 1467年~1477年
きっかけ 将軍継承争い+守護大名の対立+家督争い
主な人物 細川勝元(東軍)、山名宗全(西軍)、足利義政
結果 明確な勝敗なし。幕府の権威崩壊、戦国時代へ

応仁の乱は、誰が天下を取るかを決めた戦ではありません。
むしろ、「誰も統一できなくなった」ことを証明した戦であり、日本を100年以上混乱させるきっかけとなったのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次