はじめに|戊辰戦争って何のための戦い?
「戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは何だったのか?」という疑問は、明治維新を理解するうえで避けては通れません。この戦争は、単なる武力衝突ではなく、日本という国の形を根本から変えた「近代国家への第一歩」とも言える出来事です。この記事では、なぜ戊辰戦争が起きたのか、どんな戦いだったのか、そしてその後の日本にどんな影響を与えたのかを、やさしく解説していきます。
戊辰戦争とは?|いつ・誰が・何のために戦ったのか
戊辰戦争は、1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)にかけて行われた新政府軍と旧幕府軍の内戦です。「戊辰(ぼしん)」とは干支(えと)を表す言葉で、この戦争が始まった年が戊辰の年だったことに由来しています。
主な対立は、**新政府側(薩摩・長州・土佐・朝廷など)**と、旧幕府側(徳川家を中心とする勢力)。戦いの根本には、「これからの日本を誰がどのように治めるのか」という国家体制をめぐる争いがありました。
なぜ戊辰戦争は起きたのか?|江戸幕府の崩壊と対立の深まり
戊辰戦争の背景には、**黒船来航(1853年)**以降の日本社会の動揺があります。幕府はアメリカとの条約を結び開国しますが、これにより幕府の権威は失墜。不平等条約に対する反発や、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の思想が広がり、全国で政権交代の機運が高まっていきました。
1867年には、第15代将軍・**徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)**が政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」を行います。しかし、これはあくまで政治権力を温存する狙いもありました。これに対し、薩摩・長州などの改革派は徹底的な旧体制の解体を目指し、ついに武力による政権確立に踏み切ります。
① 大政奉還で終わらなかった徳川の力
1867年10月、徳川慶喜は「政権を朝廷に返します」と大政奉還を行い、江戸幕府は名目上、政権を手放しました。
しかし、慶喜は依然として日本最大の軍事力・財政力・行政組織を維持しており、実質的な権力を温存していました。
これに対し、倒幕派である薩摩藩・長州藩は、「このままでは徳川が政権の中心に残る」と判断し、慶喜の政治的影響力を完全に排除しようと動き出します。
② 「王政復古の大号令」で徳川排除を明確化
1867年12月9日、薩摩・長州は**「王政復古の大号令」**を発布させ、天皇親政の新政府の樹立を宣言。
ここで重要なのは、徳川慶喜を新政府の中から完全に除外したことです。
さらに新政府は、慶喜に対して「辞官納地(じかんのうち)=官職の辞退と領地返上」を要求します。これは、徳川家の「将軍職」も「藩主」もやめろという意味であり、徳川家の存続すら危うくなる重大な決定でした。
③ 江戸での挑発と衝突の火種
同時期、薩摩藩の挑発的な行動も事態を悪化させます。
薩摩藩士が江戸市中で火付けや暴動を起こし、幕府の治安を混乱させたのです(※薩摩藩邸焼き討ち事件の前段階)。
この行動は、「幕府を怒らせて先に戦わせる」ことを狙ったものでした。
④ 鳥羽・伏見の戦いが勃発(1868年1月)
1868年1月3日、ついに京都で最初の衝突が発生します。
徳川慶喜が自ら兵を率いて京都へ進軍したところ、薩摩・長州を中心とする新政府軍がこれを迎え撃ち、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。これが戊辰戦争の開戦となります。
この戦いで、新政府側は天皇の「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げ、「こっちが正義の政府だ」と宣言したことで、各地の諸藩が次々と新政府側に寝返っていきました。
✅ 一言でまとめると…
戊辰戦争のきっかけは、「大政奉還後も権力を保とうとした徳川慶喜」と、「徳川を排除して新しい政府を作ろうとする薩長」の対立が決定的になったことです。
武力衝突は避けられず、そこから1年以上にわたる全国規模の内戦へと発展していきます。
戊辰戦争の主な戦いの流れ
鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)
京都で新政府軍と旧幕府軍が激突。新政府軍は**錦の御旗(にしきのみはた)**を掲げ、天皇の正当な軍であることを示します。これにより、旧幕府側は「朝敵(ちょうてき)」と見なされ、戦いは一気に新政府側に有利に。
江戸無血開城(1868年4月)
新政府軍の西郷隆盛(さいごう たかもり)と、旧幕府側の勝海舟(かつ かいしゅう)が会談。流血を避けるため、江戸は戦わずして新政府の支配下に。これにより、多くの市民の命が救われました。
北陸・東北戦線と奥羽越列藩同盟
東北地方では、旧幕府を支持する多くの藩が「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結成して抵抗。中でも会津藩は激しい戦いを繰り広げ、**会津戦争(あいづせんそう)**では白虎隊の悲劇も生まれました。
函館戦争と五稜郭の戦い(1869年5月)
最後の戦いは北海道・函館の「五稜郭(ごりょうかく)」で行われました。榎本武揚(えのもと たけあき)ら旧幕府の残党が抵抗するも、新政府軍の総攻撃によって敗北。ここに、戊辰戦争は終結します。
戊辰戦争がもたらした変化
戊辰戦争によって、260年以上続いた江戸幕府体制は完全に崩壊し、明治政府による近代国家建設が本格的にスタートします。戦争そのものは国内の分裂を伴いましたが、結果として中央集権国家への道筋が開かれたことが、この戦いの最大の意義です。
また、この戦争を通じて「天皇を中心とした国家」という思想が明確に打ち出され、以後の天皇制国家の基盤となっていきます。さらに、武士の支配が終わりを告げ、徴兵制や学制、税制度などが整備されていくことで、日本は“近代化”の道を歩み始めました。
おわりに|戊辰戦争は“時代を分けた内戦”だった
戊辰戦争とは、日本の未来をかけた内戦であり、古い体制と新しい時代のぶつかり合いでした。戦いに敗れた旧幕府側の多くの人々が職や地位を失った一方で、そこから立ち上がった新政府は、富国強兵・文明開化などを通して日本を劇的に変えていきます。まさに「明治維新の出発点」として、戊辰戦争は歴史的にも大きな意味を持つのです。
内部リンク
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- 👉 大政奉還とは?徳川慶喜が政権を返した理由
👉 会津戦争と白虎隊の悲劇をわかりやすく
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