閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)とは、1895年10月8日、当時の朝鮮王妃であった閔妃(びんひ)=明成(ミョンソン)皇后が、日本の関係者によって暗殺された事件です。
この事件は、当時の朝鮮半島における日本の介入の象徴として、現在でも韓国で強い記憶として残っています。
また、この事件がきっかけで日韓関係は悪化し、のちの韓国併合へとつながる重要な出来事でもあります。
1. 閔妃とは?|朝鮮の近代化を主導した王妃
閔妃(本名:閔玆暎〈ミン・ジャヨン〉)は、朝鮮王朝第26代王・**高宗(コジョン)**の王妃であり、政治的な発言力を強く持った人物でした。
- 政治に深く関与し、近代化政策を推進
- ロシア・中国など外国勢力を巧みに利用して日本の影響力を抑えようとした
- 日本の急激な干渉と改革に反発し、日本と対立
2. なぜ閔妃は暗殺されたのか?|日本の利害と朝鮮の内紛
🔥 背景
1894年、朝鮮では農民の反乱「東学党の乱」が勃発。これにより清と日本が朝鮮に軍を派遣し、日清戦争へと発展しました。戦後、清を追い出した日本は、朝鮮における影響力を強めます。
しかし――
閔妃は日本の影響力を警戒し、ロシアとの接近を図ったため、日本側は彼女を「親日派政権の障害」と見なしました。
3. 事件の経緯|1895年10月8日、王宮での襲撃
事件は、1895年10月8日、朝鮮の王宮「景福宮(けいふくきゅう)」で発生します。
実行された内容:
- 日本公使館付の警備兵や日本の民間浪人(武装した民間人)、親日的な朝鮮軍人らが王宮に乱入
- 閔妃を捜索し、女性たちの中から本人を特定
- 刺殺した上で遺体を焼却し、証拠隠滅
この一連の行動は、日本政府が公式に命じたものではないとされますが、日本の公使や軍関係者が黙認・関与していたと強く疑われています。
4. 事件の影響|国内外での批判と日本外交の転換
閔妃殺害の報道は、韓国国内のみならず欧米列強の激しい非難を招きました。
主な影響:
- 国際世論の反発 → 日本の外交的立場が悪化
- 高宗はロシア公使館に逃れ、親露政権が発足(1896年)
- 日本は一時的に朝鮮での影響力を後退させる結果に
その後、日本は強引な手法ではなく、**外交・条約による段階的な支配(保護国化)**へ方針を切り替えていくようになります。
5. なぜこの事件が重要なのか?|韓国併合への第一歩
閔妃暗殺事件は、以下の点で韓国併合への流れを決定づけたターニングポイントでした。
- 日本が軍事力で朝鮮政治に深く介入した初の大事件
- 韓国国内の反日感情の拡大
- 日本がより慎重かつ体系的に朝鮮支配を進めるきっかけとなった
6. 現代の評価と記憶
韓国では現在でもこの事件を「民族の侮辱と屈辱」として強く記憶しています。
ソウルには閔妃を祀る「明成皇后記念館」や慰霊碑もあり、歴史教育の中でも重視されています。
一方、日本では長らくこの事件があまり広く知られていませんでしたが、近年は歴史認識の一環として再評価が進んでいます。
まとめ:閔妃暗殺事件が残したもの
- 閔妃暗殺事件は、朝鮮王朝の王妃が日本関係者によって殺害された近代史の重大事件
- 朝鮮支配の過程で生まれた日本の軍事介入と民族的対立の象徴
- 現在も日韓の歴史問題の根底にある事件の一つ
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