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封建制度とは?鎌倉幕府の支配構造をわかりやすく解説!

日本史の教科書を読んでいると、「封建制度(ほうけんせいど)」という言葉を目にすることが多いと思います。
中世の武士社会を語るうえで欠かせないこの用語ですが、実はヨーロッパと日本ではその意味や構造に違いがあるのをご存じでしょうか?

今回は、日本の歴史における「封建制度」の意味と特徴についてわかりやすく解説します。
学生の方はもちろん、大人になってから日本史を学びなおしたいという方にも役立つ内容となっていますので、ぜひ最後までご覧ください!

目次

🔎 封建制度とは?

封建制度とは、土地の給与を通じて、主人(主君)と従者(家臣)が結ばれる主従関係のしくみのことを指します。

日本史においてこの制度が本格化するのは、鎌倉時代からです。たとえばこの時代、幕府の命を受けて各地に派遣された武士の中に「地頭(じとう)」という役職があります。地頭の主な役割は、土地の年貢(収穫物や税)を徴収し、それを管理することでした。


🏯 地頭が得た権利とは?

地頭は、鎌倉幕府から土地の管理権を与えられていました。そしてその土地から得られる産物(米や布など)を徴収する権利がありました。徴収した年貢の一部は幕府に上納する必要がありましたが、残りは自分の取り分として自由に使うことができました。

これは従者にとって非常に大きなメリットであり、武士たちにとって「鎌倉幕府に仕えることの魅力」となったのです。


🤝 御恩と奉公の関係

このように、土地を与えられる「御恩(ごおん)」に対して、従者が軍役などで仕える「奉公(ほうこう)」で返す、という関係こそが日本の封建制度の核です。

  • 🛡 御恩 … 土地の安堵や新たな土地の給与など、主君からの報酬
  • ⚔ 奉公 … 戦時の軍役や平時の警護、忠誠など、従者からの奉仕

幕府はこの「御恩と奉公」を制度化することで、多くの武士を家臣団として組織し、全国を支配していきました。


📚 封建制度は日本だけ?

封建制度は日本だけの制度ではありません。土地を与え、奉仕と忠誠を引き換えに支配を行うこの仕組みは、中世ヨーロッパの封建社会(王・貴族・騎士の関係)にも見られます。
土地を基盤にした主従関係というのは、人類共通の支配システムのひとつといえるでしょう。


📝 用語解説

  • 本領安堵(ほんりょうあんど):もともと持っていた土地の所有を幕府が公式に認めること
  • 新恩給与(しんおんきゅうよ):功績に応じて新たな土地を与えること

鎌倉幕府はこれらの政策を駆使し、武士たちとの主従関係を築き上げました。


🏯 鎌倉時代の封建制度はなぜ崩壊した?

二度の元軍襲来がもたらしたシステムの限界

一見すると、鎌倉時代の封建制度は安定した仕組みに見えます。
主君から土地を与えられた武士(御家人)が、その見返りに戦時の奉公を果たす――いわゆる「御恩と奉公」の関係です。

しかし、この制度には致命的な弱点がありました。
それは、奉公に対する「御恩」=報酬が与えられなくなったとき、システム全体が破綻するという点です。
この矛盾が顕在化したのが、まさに「元寇(げんこう)」――モンゴル帝国による日本侵攻でした。


⚔ モンゴル帝国の拡大と日本への侵攻

13世紀初頭、チンギス=ハンがモンゴル高原の諸部族を統一し、中央アジアから南ロシア、中国北部に至る大帝国を築きました。
その孫にあたるフビライ=ハンは、中国の元(げん)を建国し、さらなる拡大を目指して日本にも朝貢を要求してきます。

これを拒んだのが、当時の執権・北条時宗(ほうじょう ときむね)
やがてフビライは2度にわたり日本に大軍を送り込みます。

  • 1274年:文永の役(ぶんえいのえき)
    博多湾に元軍が襲来。日本側は混乱しながらも撃退。
  • 1281年:弘安の役(こうあんのえき)
    大規模な再侵攻に対し、幕府軍は防塁を築き善戦。台風(神風)の助けもあり再び撃退。

🌀 元寇が封建制度を揺るがせた理由

元との戦いは「国難」でしたが、武士たちには戦功をあげても「新たな土地」が与えられないという重大な問題がありました。
海外からの防衛戦争だったため、恩賞(御恩)となる領地が存在しなかったのです。

これにより、多くの御家人は報われず、不満を募らせていきます。
さらに、戦費や警備の負担が続いたことで経済的にも困窮し、幕府に仕えるメリットが次第に薄れていきました。


🐎 新興武士の台頭と「悪党」の登場

このような背景の中で、幕府の命令に従わず、年貢の納入を拒否する新興武士たちが登場します。
彼らは既存の御家人ではなく、地方で力を蓄えた独立的な武士層で、「悪党(あくとう)」と呼ばれました。

悪党は各地で勢力を拡大し、幕府の支配に歯向かうようになります。
一方で、こうした勢力は、のちの倒幕運動において重要な役割を果たすことになります。


👑 後醍醐天皇と倒幕の動き

この情勢を見て、皇位継承に不満を持っていた後醍醐天皇は、幕府を倒す決意を固めます。
一度は計画が発覚して隠岐(おき)に流されますが、皇子の**護良親王(もりよししんのう)楠木正成(くすのき まさしげ)**らが蜂起。

彼らは悪党などの反幕勢力を結集し、幕府軍と激しい戦いを繰り広げます。
やがて後醍醐天皇が脱出し、全国の武士に倒幕を呼びかけると、ついに有力御家人である足利尊氏新田義貞も挙兵。
1333年、鎌倉幕府はついに滅亡を迎えました。


✅ まとめ|封建制度の終焉とその教訓

鎌倉幕府の封建制度は、「御恩と奉公」という形で全国の武士をまとめあげた画期的な仕組みでした。
しかし、報酬となる土地を与えられない戦争(元寇)によってその基盤が揺らぎ、御家人の忠誠は崩れ、非御家人(悪党)の台頭とともに、体制は瓦解していきました。

封建制度は土地を通じた関係で成り立つため、土地という報酬が供給できなくなったとき、その根本から崩れてしまうのです。

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