はじめに:銃声で終わった政党政治の時代
1932年(昭和7年)5月15日、東京で首相官邸が襲撃され、当時の首相・**犬養毅(いぬかい つよし)**が暗殺されました。
この衝撃的な事件が「五・一五事件(ご・いちご じけん)」です。
事件の背後には、不況と社会不安、そして若き軍人たちの強い不満がありました。
この記事では、五・一五事件の背景・経過・日本社会への影響をわかりやすく解説します。
1. 五・一五事件とは?基本情報
発生:1932年(昭和7年)5月15日
犯人:海軍の青年将校たち(一部陸軍士官学校生や民間右翼も関与)
犠牲者:犬養毅首相が暗殺される
目的:政党政治の打倒、軍部主導の国家体制への移行
五・一五事件は、軍人が政府中枢に直接手を出した最初の政治テロ事件であり、のちの二・二六事件や軍国主義の高まりに続く流れの始まりでもあります。
2. 犯人は誰だったのか?青年将校たちの思想
犯行に及んだのは、海軍の若手将校たちを中心とした**「皇道派(こうどうは)」的思想**を持つ軍人たちでした。
彼らは次のような信念を持っていました:
現在の政治(政党・財閥)は腐敗している
天皇を中心にした「理想の国家」に戻すべき
弱者が苦しむ社会を変えたい
つまり、彼らの行動は「理想に燃える改革」でもありましたが、手段としての暴力=テロに訴えた点で大きな問題をはらんでいました。
3. 事件当日の流れと暗殺の様子
1932年5月15日、東京で同時多発的な襲撃事件が起きました。
首相官邸に侵入 → 犬養毅首相を射殺
警視庁、政友会本部、財閥(三井銀行)などにも襲撃
犯人たちはその後、「われわれの行動は正義である」と主張し出頭
※当時、犬養首相は犯人の若者に対し「話せばわかる」と言ったと伝えられていますが、発砲により暗殺されました。
4. 犬養毅とはどんな人物だったのか?
犬養毅(いぬかい つよし)は、最後の政党内閣の首相とされ、民衆の声を大切にする温厚で理想主義的な政治家でした。
所属:立憲政友会
政策:金本位制停止、軍縮・外交重視
人柄:国民からの信頼が厚く、演説もうまい政治家
彼が殺されたことで、政党政治の時代に終止符が打たれたとされています。
🔷 犬養毅はなぜ暗殺されたのか?
理由①:政党政治の象徴だったから
犬養毅は立憲政友会の党首であり、最後の本格的「政党内閣」首相でした。
昭和初期の日本では、政党政治に対する以下のような不信感が高まっていました:
政治家と財閥の癒着
選挙での買収や賄賂の横行
昭和恐慌への対応のまずさ(農村の困窮)
その結果、**「国を私利私欲で動かす政治家は国家の敵」**という軍人たちの思想が強まり、犬養首相はその象徴的存在と見なされてしまいました。
理由②:軍縮・外交路線に不満を持つ軍部
犬養内閣は、国際協調を重視し、軍の暴走を抑えようとする姿勢もありました。
満州事変後の軍事行動拡大を抑制しようとした
ロンドン海軍軍縮条約(1930年)にも協調的姿勢
しかしこれは、**「日本を弱くする考え」**ととらえられ、軍内部の強硬派から反発を受けました。
特に若い将校たちは、「強い日本」「天皇中心の国家」を理想視していたため、外交や軍縮を唱える犬養は“国を売る政治家”に見えたのです。
理由③:「話せばわかる」では通じない世の中に
犬養首相は温厚な人物で、犯行グループの若者にも「話せばわかる」と声をかけたと伝えられています。
しかし彼らはその言葉すら無視し、銃を向けて発砲しました。
これは象徴的な出来事であり、
🟥「もはや言論では世の中を変えられない」
🟥「暴力による“正義”の実行こそが必要だ」
という、軍国主義・行動主義の時代へと突き進む空気がはっきりと現れた瞬間でした。
🔻 なぜ「悪」とされたのか?
犬養毅そのものが「悪人」だったわけではありません。
むしろ彼は民意を重んじる、誠実な政治家でした。
しかし――
腐敗した政党政治と一体化しているように見えた
軍の暴走を抑えようとする「敵」と見なされた
現実に貧困や不満を抱える国民からも、“無力な政治家”という印象を持たれていた
そのため、社会の怒り・軍の不満・青年将校の理想主義が、犬養毅という人物に集中的に向けられてしまったのです。
✅ 犬養毅はなぜ暗殺されたのか?
犬養毅は「腐敗した政党政治の象徴」とされ、軍部や青年将校たちから**“国を救うために排除すべき存在”**とみなされた。
実際は誠実な政治家だったが、時代の不満の“象徴的標的”となってしまったのである。
この暗殺は、日本における「言論より行動」「民主主義より軍事力」という時代の価値観の転換点であり、
日本が戦争へと向かう流れのはじまりでもありました。
5. なぜクーデターは起きたのか?背景を探る
五・一五事件の背景には、さまざまな社会的要因がありました。
昭和恐慌による経済不安(→農村の困窮)
政党の腐敗・癒着への不信感
軍人たちの理想主義と行き過ぎた正義感
中国との関係悪化(満州事変後)
これらが複雑に絡み合い、「自分たちが世の中を変えるしかない」という衝動に駆られた青年将校たちは、暴力という手段を選んだのです。
6. 国民と政府の反応
事件後、犯人たちは軍法会議にかけられましたが――
軽い判決(短期の禁固刑)
多くの国民が同情し、「減刑嘆願署名」まで集まる
この「テロに対する寛容な空気」は、のちの二・二六事件や軍部の政治支配を後押しする結果になります。
7. 五・一五事件が与えた日本への影響
五・一五事件は単なる暗殺事件ではありません。これによって――
政党内閣は終わり、**「官僚・軍部中心の内閣」**が続く
軍部の発言力が強まり、政治介入が当たり前に
民主主義の後退 → 国家主義・軍国主義の台頭
つまり、日本はここから戦争へ向かう坂道を下り始めたのです。
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