はじめに|「五稜郭」はただの観光地じゃない!
北海道・函館にある星型の西洋風の城郭「五稜郭(ごりょうかく)」は、今では桜の名所として有名な観光地ですが、実はここ、日本の近代史における最後の内戦「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の終着点だったのです。
この記事では、五稜郭とはどんな場所なのか、なぜ戊辰戦争の最終決戦の地となったのか、そして何が起きたのかを、わかりやすく解説していきます。
五稜郭とは?|西洋の技術で作られた日本初の近代要塞
五稜郭は、函館市(旧・箱館)にある星形の西洋式城郭です。幕末の日本は、黒船来航をきっかけに欧米列強との外交に直面しており、「海からの攻撃に備えた新しい城の形」が必要になっていました。
1857年、江戸幕府はフランスの築城技術を参考にして、**防衛力の高い「稜堡式(りょうほしき)要塞」**である五稜郭の建設を開始。1864年に完成し、蝦夷地(えぞち:北海道)の政治と防衛の中心地となります。
名前の由来は、外堀が五つの稜(とがった角)を持つ星型をしていることから来ています。高台に囲まれ、砲撃にも強く、当時としては最新鋭の軍事施設でした。
なぜ五稜郭が戊辰戦争の舞台になったのか?
① 幕府崩壊後、旧幕臣たちの「最後の砦」に
1868年、徳川慶喜の大政奉還から始まった戊辰戦争は、新政府軍と旧幕府軍の全国的な内戦に発展しました。
旧幕府が敗れ、江戸無血開城、会津戦争を経て、徳川側は次第に追い詰められていきます。そんな中、「もう後がない」と感じた旧幕臣たちは、最後の拠点を蝦夷地(北海道)に築こうと決意します。
② 土方歳三らが率いる「蝦夷共和国」の誕生
旧幕臣の中でも中心となったのが、**榎本武揚(えのもと たけあき)と、あの新選組副長土方歳三(ひじかた としぞう)**でした。
榎本は幕府海軍を率い、軍艦と兵を連れて蝦夷地に上陸。箱館(函館)を占拠し、1869年1月には**日本初の「共和制国家」とされる「蝦夷共和国」**を名乗ります(ただし主権者は旧幕臣たち)。
五稜郭はその「政庁=政府の本拠地」として使われたのです。
土方歳三もここに参加し、新政府軍との最終決戦に備えました。
五稜郭の戦い(函館戦争)|戊辰戦争の最終局面
1869年春、新政府は海軍と陸軍を動員して、五稜郭に立てこもる旧幕府軍に総攻撃を仕掛けます。
これが「箱館戦争(はこだてせんそう)」であり、戊辰戦争の最後の戦いです。
旧幕府側:約3000人(榎本・土方ら)
新政府側:約7000人(薩摩・長州など主力部隊+近代兵器)
激しい戦闘が展開されるなか、土方歳三は一本木関門で銃撃され戦死。この知らせは、旧幕府側の士気を大きく下げました。
降伏と終結|明治政府による統一へ
1869年5月、榎本武揚はついに降伏を決意。五稜郭が開城され、戊辰戦争は完全に終結します。
榎本は命を助けられ、のちに明治政府の外交官として活躍するという“復活”も遂げます。
しかしこの戦いを最後に、武士による政権(幕府)は完全に消滅し、日本は本格的に明治政府による統一国家へと歩み始めるのです。
五稜郭の今|歴史と桜が彩る観光地
現在の五稜郭は、五稜郭公園として整備され、星型の堀を残したまま誰でも自由に見学できる名所となっています。
上空から眺めると、その完璧な星形は圧巻。春には約1600本の桜が咲き誇り、日本有数の桜の名所としても有名です。
また、中央には「五稜郭タワー」があり、上から見下ろすと当時の要塞構造が一目でわかるようになっています。
まとめ|五稜郭は「最後の武士たち」の舞台だった
五稜郭は、ただの美しい星型のお城ではありません。
それは、徳川幕府の滅亡を受け入れられなかった者たちが、理想と忠義を胸に戦った最後の場所なのです。
「日本が近代国家へと生まれ変わる瞬間」を見届けた五稜郭には、今もその歴史の重みが静かに息づいています。
訪れる際は、ぜひその背景にある「武士たちの最期の物語」にも思いを馳せてみてください。
🏛 関連記事もどうぞ!
👉 【戊辰戦争とは?】徳川幕府が滅んだ最後の戦いをわかりやすく
👉 【土方歳三とは?】新選組副長が五稜郭に立てこもった理由
👉 【会津戦争と白虎隊】少年兵たちが選んだ悲劇の道とは
👉 【明治時代とは?】近代国家への一歩をわかりやすく
コメント