MENU

【大政奉還とは?】徳川慶喜が政権を返した理由をわかりやすく解説

目次

はじめに|徳川幕府の終わりを告げた「大政奉還」

1867年(慶応3年)、江戸幕府最後の将軍・**徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)**が朝廷に「政権をお返しします」と申し出た出来事、これが「大政奉還(たいせいほうかん)」です。
260年にわたって続いた徳川政権が、自らその幕を閉じる――これは日本史の中でも特に重要な分岐点となりました。

しかし、「なぜ慶喜は自ら政権を手放したのか?」「それって幕府の降伏?」という疑問を持つ人も多いでしょう。
実はこの大政奉還、ただの“敗北”ではなく、慶喜による政治的な駆け引きの一手だったのです。

大政奉還とは何か?その意味と概要

「大政」とは、国家の政治の最高権限のこと。そして「奉還」とは、それを「返す」という意味です。つまり「大政奉還」とは、将軍が朝廷に対して政治の主導権を返上することを指します。

1867年10月14日、徳川慶喜は京都の二条城で朝廷に政権を返上することを正式に申し出、翌15日にこれが受理されました。これにより、江戸幕府による支配は名目上終わりを迎えます。

徳川慶喜が政権を返した理由|真の狙いは何だったのか?

一見、「慶喜は幕府の衰退を認めて政権を放棄した」と思われがちですが、実際には徳川慶喜はむしろ“主導権を握り続ける”ことを狙っていたのです。

当時、日本は激動の幕末。ペリーの黒船来航(1853年)以降、開国と条約締結によって幕府の権威は揺らぎ、国内では「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の気運が高まっていました。とくに薩摩藩や長州藩は「倒幕」を目指して動き始めており、幕府は窮地に立たされていました。

そこで慶喜は一計を案じます。
「自分から政権を返すことで、“徳川は時代の流れに従う存在だ”と見せ、朝廷の下で政治の実権を握り続けよう」と考えたのです。つまり大政奉還は、幕府打倒を叫ぶ勢力の“名分”を奪うための、先手の一手でもありました。

大政奉還は誰の提案だったのか?

大政奉還の考えを後押ししたのは、**土佐藩の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)と坂本龍馬(さかもと りょうま)**でした。
坂本龍馬は、「船中八策(せんちゅうはっさく)」と呼ばれる構想の中で、政権返上と議会による政治を提案しています。これは後に明治政府の政治体制の礎にもなります。

彼らは「武力による倒幕ではなく、平和的な政権移行を」と考えており、その仲介として幕府にも大政奉還を働きかけていたのです。

大政奉還のその後|なぜ戊辰戦争が起きたのか?

大政奉還によって政権は朝廷に返されましたが、実際には徳川慶喜が依然として軍事力・経済力・人材ネットワークを持っており、依然として政治の中心に君臨しようとしていました。

これに対して、薩摩・長州らは激しく反発。1867年12月には「王政復古の大号令」を発し、新政府の設立と徳川家の排除を宣言します。

こうして両者の対立は深まり、翌1868年には「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」という内戦へと発展していきます。つまり、大政奉還は武力衝突を回避する目的もありましたが、結果として争いの火種を生むことにもなったのです。

まとめ|大政奉還は「幕末最大の知恵比べ」だった

大政奉還は、ただ単に幕府が「負けを認めた」出来事ではありません。
それは、徳川慶喜が時代の潮流を読み、政権を返すことで徳川家の存続と主導権を守ろうとした政治的な戦略でした。

結果的にその思惑は薩長によって打ち砕かれ、明治新政府が誕生しますが、それでも大政奉還は、日本が「武士の時代」から「近代国家」へと大きく舵を切った瞬間だったのです。

🏛 関連記事もおすすめ!

  • 👉 【戊辰戦争とは?】明治維新の始まりを解説

  • 👉 【明治時代とは?】文明開化と日本の近代化をわかりやすく

  • 👉 【坂本龍馬とは?】船中八策と平和的維新の夢

  • 👉 【江戸時代とは?】徳川家康が築いた幕府の260年


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次