はじめに|「民主主義」は日本でも育っていた?
「大正デモクラシー」という言葉、聞いたことはあるけれど、何が起こったのかよくわからない……そんな方も多いかもしれません。実はこの言葉には、民衆の力で政治を動かしたという、日本近代史における大きな転換点の意味が込められています。
明治時代が「国家主導の近代化」の時代だったとすれば、大正時代は「民衆による政治参加」が本格的に始まった時代です。この記事では、「大正デモクラシーとは何か?」をわかりやすく、時代背景から主要な出来事、その影響まで丁寧に解説します。
大正デモクラシーとは何か?
「大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)」とは、大正時代(1912〜1926年)を中心に、日本で民主主義的な政治改革が進んだ動きの総称です。
国民が政治に声を上げ、政党による議会中心の政治体制が目指され、思想や表現の自由も広がっていきました。
この時代、日本はまだ完全な民主国家ではありませんでしたが、それでも近代的な議会政治や選挙制度に一歩近づいた、大きな進展があった時期といえるのです。
なぜ大正デモクラシーが始まったのか?背景を探る
明治時代の日本では、天皇中心の中央集権体制が築かれ、政治は軍部や官僚の手に握られていました。選挙は存在していても、納税額による制限選挙で、実際に投票できるのは一部の富裕層のみでした。
ところが明治末期、政党と軍部の癒着や汚職、世襲的な内閣の継続に国民の不満が高まり始めます。1912年、桂太郎(かつら たろう)内閣が非立憲的な手法で政権を握ると、これに対して「民意を無視するな!」という声が全国的に沸き起こり、第一次護憲運動が発生します。
この運動が大きなうねりとなり、民衆の力が政権を退陣に追い込んだことが、大正デモクラシーの第一歩でした。背景には、教育の普及による識字率の向上や、新聞・雑誌といったメディアの発展もあり、人々の政治意識が一気に高まっていたのです。
代表的な出来事①|第一次護憲運動(1912〜1913年)
第一次護憲運動は、明治末期の政党政治崩壊に反対して起こった国民的運動です。
桂太郎が政権に返り咲いたことに対し、「憲政擁護」「民意尊重」を掲げて、立憲政友会(原敬ら)や民衆が一体となって批判を展開しました。デモや新聞、演説会などが全国各地で開かれ、**「閥族打破」「憲政擁護」**というスローガンが街にあふれました。
この運動により、桂内閣はわずか50日ほどで総辞職。民意の力が政権を動かした瞬間でした。
代表的な出来事②|原敬内閣と政党政治の発展(1918〜1921年)
その後、**原敬(はら たかし)**が内閣総理大臣に就任し、日本で初めて本格的な政党内閣が成立しました。
原は地租軽減や鉄道拡張などを進め、民衆の支持を背景に議会政治を推進していきます。
また、納税条件の緩和により選挙権を持つ人が増え、政治参加が少しずつ現実のものになっていきました。
しかし原は1921年に東京駅で暗殺され、政党政治の不安定さも同時に露呈することになります。
代表的な出来事③|普通選挙法の成立(1925年)
大正デモクラシーの象徴的な成果が、1925年の「普通選挙法」成立です。
これにより、満25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられ、それまでの納税額制限が撤廃されました。
国民の政治参加は一気に広がり、日本の民主化が大きく前進します。
しかしこの年、同時に「治安維持法」も成立しており、共産主義や反体制運動への弾圧も強化されることになります。このことから、大正デモクラシーは「自由と抑圧が同居した時代」ともいわれています。
大正デモクラシーが日本にもたらしたものとは?
この時代の政治改革によって、国民が政治を変えられるという意識が育まれました。
新聞・雑誌・演説といった手段を通して、民衆の声が可視化され、国家の方向性に影響を与えるようになったのです。
また、女性運動や労働運動、農民運動などの社会運動も活発になり、日本社会は多様な声を内包するようになっていきました。
まとめ|「声を上げること」が時代を動かす原動力だった
大正デモクラシーは、日本の民主主義の土台を築いた重要な時代です。
わずか十数年という短い期間ながら、民意が政治を動かし、政党政治と選挙制度が前進したこの時代は、「声を上げることの意義」を今に伝えてくれます。
その一方で、思想弾圧や政党の腐敗、軍部の台頭といった問題も内包しており、大正デモクラシーは未完成のまま終焉を迎え、昭和の軍国主義へとつながっていきます。
しかし、近代国家・日本が自由と民主を志向した事実は、この大正という時代が確かに残した輝きでした。
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