はじめに:戦勝国・日本を待っていた「干渉」という落とし穴
1895年、日本は日清戦争に勝利し、近代国家として大きな一歩を踏み出しました。しかしその直後、思いもよらぬ国際的な圧力に直面します。それが――「三国干渉(さんごくかんしょう)」。
勝ったはずの日本が列強の圧力に屈し、獲得した領土を手放す屈辱。この事件は、後の日露戦争へとつながる日本の外交姿勢を大きく変えました。
1. 三国干渉とは?いつ起こったのか
**三国干渉(さんごくかんしょう)**とは、1895年(明治28年)4月23日、ロシア・ドイツ・フランスの三国が連名で日本に対し、清国から獲得した「遼東半島(りょうとうはんとう)」を返還するよう勧告した出来事です。
この干渉により、日本は獲得直後の遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、国内では大きな衝撃と怒りが巻き起こりました。
2. 日清戦争と下関条約の内容
三国干渉の直前、日本は清国との戦争(日清戦争)に勝利し、下関条約(1895年4月17日)を締結します。
📜 下関条約の主な内容:
清が朝鮮の独立を承認
遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本へ割譲
清が日本に賠償金2億両(銀)を支払う
この条約により、特に**戦略的価値の高い遼東半島(旅順・大連など)**を手に入れたことが、列強の警戒を呼び起こしたのです。
3. なぜロシア・ドイツ・フランスが干渉したのか
三国干渉を主導したのはロシア帝国であり、その背後には極東進出という野望がありました。
🔍 各国の思惑:
ロシア:不凍港を求めて南下政策を推進。旅順港を狙っていた
ドイツ:中国進出のきっかけを探していた(後に膠州湾を租借)
フランス:ロシアとの同盟関係を重視し、その支援に乗った
つまり、列強はアジアの利権を日本に取らせたくなかったのです。特にロシアは「自分たちの庭」と考える満州や朝鮮に日本が入り込むことを強く警戒していました。
4. 日本の対応と「臥薪嘗胆」の思い
日本政府(首相・伊藤博文)は、外交的孤立と列強との全面戦争を避けるため、やむなく三国の勧告を受け入れました。
🔁 遼東半島を返還:
→ 5月8日、日本は清国へ返還。見返りとして3000万両(約4億円)の賠償金を追加で受け取る
しかし、これは日本国民にとって**「戦争に勝ったのに列強に屈した」**という屈辱となり、新聞や雑誌では反ロシア感情が一気に高まりました。
この時よく使われた四字熟語が――
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」=復讐を誓って耐え忍ぶ決意。
5. 三国干渉が残した影響とは?
三国干渉は、日本の外交・軍事政策に大きな転換点をもたらしました。
日本の動き:
欧米列強に対抗するための軍備拡張へ舵を切る
外交的孤立を避けるため、1902年にイギリスと日英同盟を締結
1904年、ついにロシアと正面衝突(=日露戦争)に発展
三国干渉での「我慢」は、10年後の日本海海戦での勝利に繋がる戦略的布石となったのです。
6. なぜロシアは日本の「敵」になったのか
三国干渉以降、日本にとってロシアは「最大の敵」となりました。その理由は明確です。
南下政策により、朝鮮半島と満州で日本と利害が真っ向から対立
三国干渉で旅順を奪ったロシアが、その後自ら旅順港を租借・軍港化
日本の対抗策を無視し、満州支配を既成事実化
つまり、三国干渉をきっかけに、日本の「ロシア警戒心」が外交方針の中核となったのです。
7. まとめ:三国干渉は日本の外交ターニングポイント
三国干渉は、勝利の余韻にあった日本を現実に引き戻した冷や水のような事件でした。
✅ 覚えておきたいポイント:
日清戦争直後、ロシア・ドイツ・フランスが日本に遼東半島返還を要求
日本は外交的孤立を避けるため、やむなく受け入れ
その屈辱が「対ロシア強硬路線」「日英同盟」「日露戦争」へとつながった
この事件は、近代日本の「外交的リアリズム」と「国民的覚悟」を育てる転機だったと言えるでしょう。
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