はじめに:大国・イギリスと同盟を結んだ明治日本の意図とは?
1902年、日本とイギリスは同盟を結びました。アジアの一角にある新興国・日本が、当時「世界の工場」と呼ばれたイギリスと手を組んだ――この歴史的出来事には、複雑な国際情勢と日本の戦略的な意図が絡んでいます。
この記事では、「なぜ日本はイギリスと同盟を結んだのか?」という疑問に対し、当時の国際関係、ロシアの脅威、そして日本の狙いなどをわかりやすく解説します。
1. 日英同盟とは?その概要と結ばれた年
**日英同盟(にちえいどうめい)**は、1902年(明治35年)1月30日に締結された日本とイギリスの軍事的協力協定です。
この同盟の目的は、「極東アジアにおける両国の利益を守る」こと。特に中国や朝鮮半島での権益を確保することが大きな目的でした。
📘ポイント
締結:1902年(ロンドン)
内容:極東における両国の権益を相互に守る
有効期間:1923年まで(3回改定され、最終的に破棄)
2. なぜ日本は同盟を結ぼうとしたのか?
明治時代の日本は、欧米列強の植民地政策に対抗するため、独自の外交戦略を進めていました。特に、朝鮮半島と中国大陸をめぐるロシア帝国の南下政策に強い危機感を抱いていました。
日本の主な狙い:
ロシアの南下を阻止するため、後ろ盾を求めた
清との戦争(日清戦争)後に得た満州や朝鮮半島での権益を守る
欧米列強に並ぶ「近代国家」としての国際的地位を確立する
このように、日本にとってイギリスとの同盟は「ロシア対策」「国際的信頼の獲得」「東アジアでの立場強化」の三拍子が揃った外交カードだったのです。
3. イギリス側のメリットとは?
イギリスにとっても、日本との同盟は一方的な施しではありませんでした。以下のような利点がありました。
清国市場をめぐる利害の一致(当時、イギリスは清との貿易に力を入れていた)
極東におけるロシアの勢力拡大への牽制
アジア地域での軍事負担を日本に肩代わりしてもらえるメリット
つまり、日本が極東でロシアと戦ってくれれば、イギリス本国はヨーロッパやインドなど他の地域に集中できたわけです。
4. ロシアとの対立が生んだ協力関係
当時のロシアは、シベリア鉄道の開通などを背景に、南下政策を加速させていました。特に満州・朝鮮半島への進出は、日本の安全保障に直結する大問題。
こうした中、日英同盟があることで**「もし日本がロシアと戦った場合、他国(特にフランス)がロシアを支援してきたら、イギリスが日本を助ける」**という構図が生まれました。
これが、日露戦争(1904〜1905)で日本が勝利できた大きな背景の一つとなったのです。
5. 日英同盟の影響とその後の展開
日英同盟は、20年間にわたり3度の改定を経て続きました。
年 | 改定内容 | 背景 |
1905年 | 同盟強化 | 日露戦争の勝利後、日本の国際的評価上昇 |
1911年 | 対独戦争協力に関する内容追加 | 第一次世界大戦の予感 |
1923年 | 同盟解消 | アメリカ主導のワシントン会議で日本が孤立 |
特に第一次世界大戦では、日本はイギリスとの同盟を根拠に参戦し、ドイツのアジア権益(青島・南洋諸島)を獲得するなどの成果も得ました。
6. なぜ破棄されたのか?日英同盟の終焉
日英同盟は1923年に正式に終了します。主な理由は次の通りです。
アメリカが日本とイギリスの接近を警戒し、**ワシントン会議(1921-22)**で日本に圧力をかけた
イギリスもアメリカとの関係を重視するようになり、日本との同盟を続ける意味が薄れた
国際社会全体が「協調外交」路線へシフトし、二国間軍事同盟が時代遅れになった
7. まとめ:アジアの均衡と日本の選択
日英同盟は、近代日本の国際戦略の中でも画期的なものでした。ロシアの脅威に立ち向かうため、同盟国イギリスと手を結び、結果として日本は日露戦争に勝利し、国際的地位を高めることができたのです。
やがて同盟は解消されますが、それは国際社会の枠組みが変化した結果であり、日英同盟が果たした役割は近代外交の成功例として評価されています。
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