はじめに|大日本帝国憲法ってなに?
「大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)とは何だったのか?」という疑問は、日本の近代政治の理解には欠かせないテーマです。これは、明治時代に日本で初めて制定された成文憲法であり、立憲君主制(りっけんくんしゅせい)という新しい政治体制を導入した歴史的な出来事でした。この記事では、大日本帝国憲法が生まれた背景、その内容、そして現代につながる意義までをわかりやすく解説していきます。
大日本帝国憲法とは?いつ・誰がつくった?
大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に発布され、1890年(明治23年)11月29日から施行された日本最初の近代的な憲法です。制定を主導したのは、明治政府の中心人物である**伊藤博文(いとう ひろぶみ)**です。
伊藤はヨーロッパ各国を視察し、特にドイツ(プロイセン)の憲法をモデルに研究を重ねました。そして、「君主たる天皇が絶対の権限を持ちつつ、議会を開き、法律を制定する」というスタイルの憲法を設計したのです。
なぜ大日本帝国憲法が必要だったのか?
明治政府が憲法をつくろうとした背景には、国内外の状況が大きく関係しています。
一つは国内の政治不満の高まりです。明治維新以降、中央集権的な改革が進められる一方で、国民の中には「自分たちも政治に参加したい」という声が強くなっていきました。特に**自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)**が盛り上がり、国会の開設や憲法制定を求める運動が全国で展開されました。
もう一つは国際社会への対応です。当時、日本は欧米列強との間で不平等条約を結ばされており、これを改正するためには「日本も近代国家として成熟している」ということを示す必要がありました。憲法の制定と議会の設置は、その“証明”となったのです。
大日本帝国憲法の主な内容
この憲法の最大の特徴は、天皇主権の立場に立っていることです。つまり、主権(国家の最終的な決定権)は国民ではなく、天皇にあるという考え方です。以下、主なポイントを紹介します。
天皇の地位と権限
天皇は「国家元首」であり、陸海軍の統帥権(とうすいけん)や立法・行政・外交などの最高権限を持ちます。
天皇が政府を任命し、国会を召集・解散することができます。
国会制度の創設
貴族院(きぞくいん)と衆議院(しゅうぎいん)からなる帝国議会が設けられました。
議会には法律の審議権、予算の承認権などがありますが、天皇の意志に反する決定は基本的に不可能でした。
国民の権利と義務
言論・信教の自由、財産権などの「臣民の権利」が定められました。
ただしこれらは「法律の範囲内」でしか認められず、制限される可能性が常にありました。
現代の憲法との違いは?
今日の**日本国憲法(1947年施行)**と比べると、大日本帝国憲法には大きな違いがあります。もっとも大きいのは、主権の所在です。
大日本帝国憲法:主権は天皇にある(天皇主権)
日本国憲法:主権は国民にある(国民主権)
また、日本国憲法では「平和主義(戦争放棄)」「基本的人権の尊重」「三権分立」などが明確に定められており、国民の自由と権利がより強く保障されています。
大日本帝国憲法のその後|なぜ終わったのか?
大日本帝国憲法は、第二次世界大戦の敗戦後、GHQ(連合国軍)占領下の改革により、その役割を終えることになります。1946年に「日本国憲法」が公布され、1947年から施行。新しい憲法は民主主義国家への転換を象徴するものとなり、天皇は「象徴」としての立場に変わりました。
おわりに|憲法が語る、日本の政治のかたち
大日本帝国憲法とは、日本が“近代国家”へと歩み始めた証であり、立憲政治の第一歩でもありました。天皇主権のもととはいえ、議会が設けられ、国民が政治に少しずつ関わるようになったのは大きな進歩でした。この憲法の経験があったからこそ、戦後の日本国憲法もより現実的な形で定着していったのです。
憲法とは、その時代の“国のかたち”を映す鏡。今の日本がどうしてこうなっているのか、そのルーツを知る上で、大日本帝国憲法は非常に重要なカギを握っています。
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