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⚔️豊臣秀吉の死と五大老の権力争いとは?戦国の終わりと徳川台頭の背景をわかりやすく解説!

目次

📝はじめに|秀吉が死んで、何が起きたのか?

「関ヶ原の戦い」が起きた背景には、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の死と、その後の政治的な空白がありました。
秀吉の死後、まだ幼い秀頼(ひでより)を中心とする豊臣家を支えるため、政治は「五大老・五奉行」に委ねられました。

しかし、そこから始まったのは、徳川家康を中心とする権力争いの激化
この記事では、豊臣秀吉の晩年の政治から死後の権力構造、そして関ヶ原の戦いへとつながる「五大老の権力争い」の全体像をわかりやすく解説します。

1. 豊臣秀吉の晩年と秀頼の誕生

1593年、秀吉に実子・豊臣秀頼が誕生。
しかしこの時、秀吉はすでに57歳で高齢。天下統一を果たした直後で、後継問題は非常にデリケートでした。

秀吉は政権を安定させるために、

  • 有力大名の協力

  • 息子秀頼の後見体制

を整える必要がありました。

2. なぜ「五大老・五奉行」体制が作られたのか?

秀吉は自らの死後に備えて、**集団指導体制(合議制)**を導入します。

  • 五大老(ごたいろう):有力大名たちによる後見役

  • 五奉行(ごぶぎょう):政務を担う文官層

この体制の目的は「権力の集中を防ぐこと」でしたが、逆に派閥争いの火種となっていきます。

3. 五大老とは?メンバーと特徴

名前 拠点 特徴
徳川家康 江戸 実質No.1の勢力。慎重で老練。

前田利家(まえだ としいえ)

加賀(金沢) 秀吉の信任厚い。温厚だが病弱。
毛利輝元(もうり てるもと) 中国地方 戦国大名の名門。調整役を担う。
上杉景勝(うえすぎ かげかつ) 越後(会津) 上杉謙信の後継者。信義に厚い。
宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 備前(岡山) 秀吉の養子。若年だが忠誠厚い。

※五大老の筆頭は徳川家康。


4. 五奉行とは?メンバーと役割

名前 主な役割 派閥
石田三成 行政・軍事 反家康の中心人物
前田玄以(まえだ げんい) 財政 中立派
浅野長政(あさの ながまさ) 政務全般 家康寄り
増田長盛(ますだ ながもり) 民政 中立派
長束正家(なつか まさいえ) 官僚・文書管理 三成派

石田三成は秀吉子飼いの官僚で、理想主義かつ規律重視。
反対に武断派の武将たちとは対立が絶えませんでした。

5. 家康 vs 石田三成、権力闘争の構図

秀吉の死後、家康は婚姻や領地配分などで政治力を拡大。
これに反発したのが、石田三成を中心とする「豊臣恩顧の家臣団」でした。

🔥主な対立ポイント

  • 家康:実力による支配、戦国的な統治

  • 三成:法と規律による統治、豊臣家の正統性重視

これにより、政治が「武断派 vs 文治派」の対立軸に引き裂かれていきます。

6. 「会津征伐」と「関ヶ原の戦い」へ

1600年、上杉景勝が会津で軍備を強化。
これを口実に、家康は「会津征伐」に出陣します。

しかしその隙に、石田三成が挙兵。
毛利輝元を総大将とし、西軍を結成して家康打倒を狙います。

こうして起こったのが、「関ヶ原の戦い」(1600年10月21日)。

→ 家康の東軍が勝利し、豊臣政権は名実ともに終焉を迎えました。

7. まとめ|豊臣から徳川へ、権力のバトンはこうして渡された

  • 秀吉の死後、後継が幼少のため五大老・五奉行による合議制が採用

  • しかし、権力分散はかえって内部対立を招く

  • 家康と三成の対立が激化し、関ヶ原で決着

  • 家康が天下を制し、江戸幕府の道が開かれる

つまり、豊臣政権の仕組みがそのまま次の時代を呼び込む構造的な不安を抱えていたのです。

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🏯おすすめ史跡で体感しよう!

  • 二条城(京都):秀吉が政務を行った場所

  • 関ヶ原古戦場(岐阜):天下分け目の決戦地

  • 大坂城跡:豊臣家の最後の砦

歴史を知ったら、実際の場所に足を運んで、権力の移り変わりを肌で感じてみましょう!

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