🏯はじめに:信長が裏切られたあの日——
戦国時代、信長の前に立ちはだかった強敵、それが「浅井(あざい)・朝倉連合軍」でした。義理の弟・浅井長政がまさかの裏切りを決行し、信長は絶体絶命の危機に陥ります。
なぜ婚姻関係を結んでいた浅井家が、信長を裏切ることになったのでしょうか?背後には朝倉家との古い同盟、そして信長の急速な勢力拡大への危機感がありました。この記事では、織田信長と浅井・朝倉の関係の始まりから敵対、最終的な決着までを、時代背景とともにわかりやすく解説していきます。
1. 織田信長と浅井長政の婚姻関係
織田信長は勢力拡大のため、政略結婚を積極的に利用しました。1564年には、妹・お市の方(いちのかた)を浅井長政に嫁がせて、同盟を締結。これにより信長は北近江(滋賀県)を抑え、北陸や京都進出の足がかりを得たのです。
2. 朝倉義景と浅井家の古い同盟
しかし、浅井家はもともと越前(現在の福井県)の有力大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)と古くからの同盟関係にありました。浅井長政にとっては、信長との婚姻同盟と、朝倉との旧来の義理との板挟みとなっていきます。
3. 信長の越前攻めと浅井の裏切り
1570年、信長は朝倉義景のいる越前へと侵攻を開始。朝倉義景が上洛の命に従わなかったことを理由にしたこの軍事行動に、浅井長政は動揺します。
結果、浅井は突如として織田軍の背後を突き、同盟を破棄。信長にとってこれは「妹の夫に裏切られる」という、最も予想外の出来事でした。
4. 金ヶ崎の退き口:信長最大の危機
浅井の裏切りにより、信長軍は朝倉と浅井に挟まれる形となり、越前・金ヶ崎(かねがさき)からの撤退を強いられます。
この撤退戦は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、信長の弟・織田信行や盟友・木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の献身によって命からがら脱出することができました。
5. 姉川の戦いと信長の反撃
裏切りを許さなかった信長は、同年(1570年)7月に「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍と激突。
織田・徳川連合軍は勝利を収め、浅井家に大きな打撃を与えます。この戦いは、信長と家康の絆を深めた戦いでもありました。
織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と激突した姉川の戦いについて詳しく知りたい方はこちら:
👉 姉川の戦いとは?織田・徳川vs浅井・朝倉の決戦をわかりやすく解説
6. 浅井・朝倉滅亡までの流れ
その後、1573年には信長が再び大軍を率いて浅井・朝倉を攻め、両家を滅ぼします。
・朝倉義景は自害
・浅井長政もお市の方と娘たちを逃がしたのち自害
信長の手で義弟とその主君は滅ぼされ、北近江・越前は信長の手に落ちました。
7. 信長が受けた裏切りの影響
この裏切りは信長にとって深い傷となり、後の宗教勢力(比叡山や一向一揆)への徹底的な弾圧や、無慈悲ともいえる軍事行動へとつながっていきます。比叡山焼き討ち(1571年)も、浅井・朝倉との戦いの延長線上にある行動でした。
8. まとめ:義と戦略が交錯する戦国の人間関係
織田信長と浅井・朝倉の関係は、「義理」と「戦略」が激しくぶつかり合った戦国時代らしい出来事です。
信長はこの裏切りを乗り越え、中央政権の確立に近づいていきますが、そこには大切な家族を巻き込んだ苦しい決断もありました。戦国の世の非情さと、人間関係の複雑さが浮き彫りになるエピソードです。
コメント