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【日野富子とは】応仁の乱を動かした“室町幕府のゴッドマザー”とはどんな人物?

「日野富子って聞いたことあるけど、どんな人だったの?」
「女性なのに政治に関わっていたって本当?」

そんな疑問を持つあなたに向けて、この記事では室町時代の実力者・日野富子(ひのとみこ)について、人物像や彼女が関わった事件を中心にわかりやすく解説します。

目次

◆ 日野富子とは?【簡単なプロフィール】

項目内容
生年1440年頃(明確な記録はなし)
死没1496年
出身公家・日野家の娘(摂関家に近い名門)
配偶者足利義政(室町幕府第8代将軍)
子ども足利義尚(第9代将軍)

◆ なぜ日野富子が有名なのか?

日野富子は、単なる「将軍の正室」ではありませんでした。
夫・義政が無気力で政治に関心を持たなかった一方、富子は積極的に政局に関わり、時に将軍すら動かした実力者だったのです。

特に有名なのが、以下の2つの出来事です。

◆ ① 応仁の乱のきっかけをつくった?

応仁の乱(1467~1477)は、日本全国を巻き込む内乱で、戦国時代の始まりとされる大事件です。
この戦いの発端のひとつが、将軍の後継者争いでした。

▶ 将軍の子がいなかった義政と義視の指名

  • 義政は最初、実子がいなかったため弟・足利義視を後継者に指名

  • しかし、その後、富子との間に実子・義尚が誕生

▶ 富子は実子を将軍にしたい

富子は当然、自分の息子・義尚を次の将軍にしたいと考えました。
しかし義視はすでに後継として迎えられており、これをめぐって義尚派(西軍)と義視派(東軍)が対立
この対立に有力大名が加わり、結果として応仁の乱が勃発しました。

➡ 日野富子は、戦国時代の引き金を引いた“黒幕”の一人ともいえる存在なのです。

◆ ② 戦後も「女将軍」として政界に君臨

応仁の乱が終わったあと、夫・義政は政治からほぼ引退し、文化活動(東山文化)に没頭。
その間、日野富子は息子・義尚の後見人として幕府政治に強く関与しました。

▶ 富子が行ったことの例

  • 幕府の人事や財政に口を出す

  • 大名たちに金銭を貸し、利息を取って政治的影響力を持つ

  • 貴族や寺社との強いつながりを利用して権力を維持

彼女は「女将軍」と陰で呼ばれるほどの影響力を持ち、日本史上最も権力をふるった女性の一人といわれています。

◆ 日野富子の評価は? 悪女?それとも政治家?

日野富子には「わが子のために戦争を起こした悪女」との評価がある一方で、混乱の時代に政治を回し、室町幕府を支えた稀有な女性リーダーだったという見方もあります。

彼女の行動はたしかに野心的で、私利私欲に見える部分もありますが、同時に「無責任な夫の代わりに実務を担ったリアリスト」ともいえるのです。

◆ 日野富子が関わった主な出来事まとめ

年代出来事関わり
1459年頃足利義政と結婚室町幕府の正室として登場
1465年息子・義尚誕生義視との後継争いの火種に
1467年応仁の乱勃発義尚を支持し西軍を後押し
1473年義政が政治から離脱富子が実質的に幕政を担う
1479年以降幕府財政に関与貸金業などで実権を保持

◆ まとめ|日野富子はどんな人物だったのか?

日野富子は、将軍の妻という立場を超えて、政治の中心に立ち続けた室町幕府の“影の支配者”でした。

  • 応仁の乱のきっかけをつくった張本人でもあり

  • 息子・義尚の将軍就任を支え

  • 幕府の財政と人事にまで影響を及ぼした

その行動力と政治的手腕は、まさに戦国時代の先駆けとなる女傑といえるでしょう。

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