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織田信長はなぜ足利将軍家に対して力を持ったのか?戦だけではない3つの理由【わかりやすく解説】

「織田信長は戦が強かったから有名になったんでしょ?」
確かにそれは正しいのですが、それだけでは彼が将軍家を超えるほどの力を持つことはできませんでした。

信長が室町幕府の将軍・足利義昭に対して優位に立ち、最終的に幕府そのものを滅ぼすまでになった理由は、単なる軍事力にとどまらず、政治的な戦略と時代の流れを読む力があったからです。この記事ではその理由をわかりやすく解説します。

目次

1. 戦に強かったことは確かに大きな理由

信長は1560年の桶狭間の戦いで、2万以上の兵を率いる今川義元をわずか3000~4000人で破りました。この戦いで一気に名を上げ、戦国大名としての地位を確立します。

さらに1575年の長篠の戦いでは、鉄砲を大量に使用して武田軍を撃破。戦術的にも非常に進んだ軍事力を持ち、信長の名は全国に知れ渡ります。

このような圧倒的な戦の強さは、信長が他の大名や将軍から一目置かれる土台となったことは間違いありません。

2. 将軍家を「利用」することで正統性を得た

1568年、信長は足利義昭を奉じて京都に上洛し、彼を第15代将軍に就任させます。これによって信長は、「将軍を支える正義の武将」という名分を得ました。

当時の人々にとって、「将軍の命令で動く」という形式が大義名分になるため、信長は幕府の後ろ盾を利用して他の大名たちへの影響力を広げたのです。

3. 最終的には将軍家を超えて「天下」を目指した

ところが、足利義昭は信長の支配に次第に不満を持ち、諸大名とともに信長打倒を画策します。信長はこれに対抗し、1573年に義昭を京都から追放。室町幕府は事実上滅亡しました。

つまり信長は、

  • 将軍を支えることで全国統一の名分を得て

  • 将軍家を超える実力を身につけ

  • 最終的には「将軍すら不要」として自らが天下の支配者を目指したのです


🔻 もともとは協力関係だった

1568年、足利義昭は流浪の身から織田信長の支援を受けて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任しました。
このとき信長は「将軍を擁立した英雄」として、政治的な大義名分を得ることに成功します。

🔻 関係悪化の理由と出来事

◆ 義昭が望んだ「将軍主導の政治」が実現しなかった

足利義昭は、あくまで自分が主権を持つ「将軍による政治」を目指していました。しかし、信長はそれを許さず、実際の政治権限を自分の手に集中させました

義昭は形式上は将軍でも、**実質的には信長の「お飾り将軍」**になってしまったのです。

◆ 義昭が勝手に他の大名と結び始めた(1570年ごろ)

義昭は、信長の勢力拡大を警戒し、反信長勢力(浅井・朝倉・本願寺など)と密かに連絡を取り始めます
こうした動きに信長は強く反発し、両者の対立は表面化していきました。

◆ 二条御所の対立(1573年)

1573年、義昭は京都の二条御所で信長に対して明確に兵を挙げ、戦を仕掛けます(槇島城の戦い)

信長はこれを撃破し、義昭を京都から追放。これにより室町幕府は事実上滅亡しました。

🔻 なぜ仲たがいしたのか?

原因 内容
政治観の違い 義昭は将軍中心の政治、信長は実力主義で支配
権力への不満 義昭は信長の圧倒的な支配に耐えられなかった
外交的裏切り 義昭が敵対勢力と連携し始めた
軍事衝突 1573年、武力衝突の末に追放される

足利義昭は、織田信長を「利用して天下を治めたい」と考えていましたが、信長は「将軍を利用して天下を取る」つもりだった――このズレがやがて決定的な対立に変わったのです。

まとめ|信長の強さは戦だけではない

織田信長が将軍家に対して力を持てたのは、もちろん戦が強かったからです。しかしそれだけではなく、将軍を利用して正統性を得る知恵、そして時代の流れを読み切る先見性があったからこそ、戦国の覇者になれたのです。

信長の成功は「戦」と「戦略」の両輪によって成り立っていた。
―それが彼が歴史を動かした最大の理由なのです。

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