「室町時代ってどんな時代だったの?」
そんな疑問を持つ方に向けて、この記事では室町時代をわかりやすく解説します。室町幕府の成立から、戦国時代の混乱、そして織田信長・豊臣秀吉による天下統一へと続く歴史の大きな流れをつかめる内容です。
室町時代とはいつからいつまで?
室町時代は、1336年から1573年まで、約240年にわたる時代です。
1336年:足利尊氏が京都に幕府を開く(室町幕府の始まり)
1573年:織田信長が最後の将軍・足利義昭を追放(室町幕府の終焉)
南北朝時代から室町時代へ【室町時代のはじまり】
◆ 鎌倉幕府の崩壊と後醍醐天皇の倒幕
鎌倉時代末期、後醍醐天皇は「建武の新政」により天皇親政を目指しましたが、武士たちの不満を買い、足利尊氏が反旗を翻して新たに幕府を開きます。
この結果、天皇が二つに分かれる南北朝時代が始まりました(1336年〜1392年)。
◆ 南北朝の対立と統一
南朝(後醍醐天皇の流れをくむ)
北朝(足利尊氏が立てた光明天皇以降)
戦乱は約60年にわたって続きましたが、1392年に3代将軍・足利義満が南北朝を合一し、ようやく国内は一つにまとまります。
▶️ 南北朝時代の概要については、
【わかりやすく解説】室町時代とは?南北朝から戦国、そして安土桃山時代へ
をご覧ください。
室町幕府の特徴【わかりやすく解説】
室町幕府は、鎌倉幕府とは違い、京都・室町を本拠とする都市型の幕府でした。
◆ 管領・守護制度
将軍の補佐役として「管領」
全国の支配は「守護大名」が担当
→ 武士による地方支配のしくみを整えました。
■ 管領が置かれた理由
① 将軍の補佐と政務の実務化
室町幕府の将軍は、全国の武士を統率する立場にありましたが、将軍一人で全ての政務をこなすのは不可能でした。
そのため、将軍の政務を代行・補佐する最高職として「管領」が設けられたのです。
② 有力守護大名のバランスを取るため
室町幕府は、全国に勢力を持つ**守護大名(しゅごだいみょう)**たちを従えていました。
将軍権力がまだ不安定だったため、管領に有力大名を任命することで彼らの不満を抑え、幕府への忠誠を確保しようとしました。
③ 鎌倉幕府の失敗を踏まえて
鎌倉幕府では、執権(北条氏)に権力が集中し、将軍は形だけになってしまいました。
室町幕府では、将軍の権威を保ちつつ、管領を置いて実務を分担することで、よりバランスの取れた政治運営を目指したのです。
■ 管領制度の概要
後には「三管領家(さんかんれいけ)」と呼ばれる名家が交代で任命されました。
細川氏
斯波氏(しばし)
畠山氏
彼らは将軍を支えつつ、幕府の政治・人事・裁判を執行する中心的な役割を担いました。
■ 管領制度が必要とされた時代背景
◆ 幕府の制度が未発達だった創成期
幕府設立当初は、中央集権的な仕組みが未整備で、各地の有力武士が独自に権力を持っていました。
管領はそれらを統制し、将軍の意志を全国に浸透させる重要な役割を果たしました。
◆ 全国の治安維持と訴訟処理
全国の武士たちの間でしばしば発生する土地争い・相続問題に、幕府が介入する必要がありました。
こうした紛争処理を円滑に行うためにも、政務経験のある有力者が必要だったのです。
◆ 応仁の乱前後の権力争い
時代が下ると、管領家同士の対立が激しくなり、応仁の乱(1467年)では畠山氏や細川氏の内紛が原因の一つに。
つまり、管領の存在は時に安定にも不安定にもつながる二面性を持っていました。
■ まとめ
管領は、将軍を補佐し、室町幕府を円滑に運営するための最高職でした。その設置は、有力守護大名を幕府の一員として取り込み、政権の安定を図るために必要不可欠な制度だったのです。
室町時代は、中央の将軍と地方の大名の力関係が複雑に絡み合う時代であり、管領はそのバランスを取る要として重要な役割を担っていました。
▶️ 鎌倉時代の執権と室町時代の管領の違いについては、
【わかりやすく解説】鎌倉時代の執権と室町時代の管領の違いとは?
をご覧ください。
◆ 京都の繁栄と文化
京都は政治の中心として発展
足利義満の時代には「金閣寺」が建てられ、北山文化が栄えました
応仁の乱と戦国時代のはじまり
◆ 応仁の乱(1467年〜1477年)
8代将軍・足利義政の後継者争いと、有力守護大名同士の対立から起こった内戦。この戦いは11年にわたって続き、京都は焼け野原となり、幕府の権威は失墜します。
◆ 下剋上の時代へ
応仁の乱の後、日本は事実上の群雄割拠の戦国時代に突入します。守護大名に代わって「戦国大名」が台頭し、力のある者が領地を支配する“下剋上”の時代が到来しました。
なぜ安土桃山時代へ移ったのか?
◆ 室町幕府の終焉(1573年)
15代将軍・足利義昭は織田信長を頼って将軍に就任しましたが、のちに対立。1573年、信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は完全に滅びました。
これにより、約240年続いた室町時代は終わりを告げ、信長と豊臣秀吉による新たな天下統一の時代が始まります。
織田信長が足利義昭を追放した理由は、幕府の権威を利用する時期が終わり、自らの独裁体制を築くためでした。
当初、信長は足利義昭を将軍に擁立することで「正統な大義名分」を得て勢力を拡大しました。しかし、義昭は次第に信長の支配を嫌い、他の大名と結んで対抗するようになります。これを受けた信長は、1573年に義昭を京都から追放し、室町幕府を事実上滅ぼしました。
信長にとっては、もはや将軍の存在は不要であり、自らの軍事力と政治力で新しい秩序を築くための障害と見なされたのです。
▶️室町後期に織田信長が力をつけていった背景は
織田信長はなぜ足利将軍家に対して力を持ったのか?戦だけではない3つの理由【わかりやすく解説】
をご覧ください。
安土桃山時代とのつながり
◆ 織田信長の改革
楽市楽座で経済を活性化
鉄砲の導入と戦術改革
宗教勢力(比叡山延暦寺など)を排除して、中央集権を目指す
◆ 豊臣秀吉の全国統一
信長の死後、後を継いだ秀吉が全国の戦国大名を従え、1590年には実質的に全国統一を成し遂げます。
室町時代の文化と暮らし【補足解説】
室町時代は文化面でも大きな発展がありました。
北山文化(義満):金閣寺、能楽、水墨画
東山文化(義政):銀閣寺、わび茶(茶道)、書院造
これらの文化はのちの日本文化の基礎となり、今も多くの影響を残しています。
まとめ|室町時代をわかりやすく振り返る
時期 | 出来事 |
---|---|
1336年 | 足利尊氏、室町幕府を開く |
1392年 | 南北朝の統一(義満) |
1467年 | 応仁の乱、戦国時代へ突入 |
1573年 | 室町幕府滅亡(信長が義昭を追放) |
結論:室町時代は動乱の時代、だが文化の花も咲いた
室町時代は、南北朝の分裂、戦国の混乱と続く波乱の時代でした。しかしその中で、能楽、茶道、建築など日本文化の礎が育まれた時代でもあります。織田信長による幕府の終焉は、次なる「安土桃山時代」への扉を開き、日本の近世への大きな転換点となりました。
コメント