はじめに|「鎌倉時代っていつのこと?」を知るのが歴史理解の第一歩
「鎌倉時代っていつからいつまで?」という疑問は、日本の歴史を学び始める人が最初につまずきやすいポイントの一つです。
この時代は、武士が初めて政権を握った画期的な時代であり、武家政治のはじまりでもあります。
この記事では、鎌倉時代の期間(年号)を明確にし、その前後の時代背景、どんな出来事があったのか、そしてどうして鎌倉幕府が成立し、やがて終わりを迎えたのかまで、わかりやすく解説します。
鎌倉時代はいつからいつまで?
● 鎌倉時代の期間
**1185年〜1333年(約150年間)**が、一般的に鎌倉時代とされています。
年 | 出来事 | 説明 |
---|---|---|
1185年 | 源頼朝が全国に守護・地頭を設置 | 武家による支配が本格化。事実上の幕府成立 |
1192年 | 源頼朝が征夷大将軍に任命される | 鎌倉幕府の正式発足 |
1333年 | 鎌倉幕府が滅亡(後醍醐天皇による倒幕) | 南北朝時代へ移行する直前 |
※学校教科書では1192年がスタートとされることが多いですが、実質的な支配が始まったのは1185年です。
鎌倉時代が始まった背景|なぜ武士の時代が始まったのか?
平安時代後期、中央政府(貴族中心の摂関政治)は地方の統治力を失い、武士たちが地方で実権を持つようになっていきました。
鎌倉時代の始まりは、貴族社会の頂点に君臨していた藤原氏の衰退と、源氏・平氏といった武士の台頭によって特徴づけられます。藤原氏は、平安時代を通じて摂関政治を通じて朝廷の実権を掌握し、政治の中心に位置していました。しかしその権力は、時代の変化とともに次第に揺らぎ始めます。
まず、11世紀後半になると、院政の開始によって天皇家内部の実力者が政治を主導するようになり、摂関家の権威は相対的に低下しました。白河上皇や鳥羽上皇のように、天皇退位後も政治の実権を握る「院」が登場し、実際の政務は彼らによって行われるようになります。これにより藤原氏の摂政・関白としての役割は限定的となり、実質的な政治力は後退します。
平安時代後期には中央政府の財政難や治安の悪化が進み、地方では盗賊や反乱が多発しました。貴族ではそれらを抑えることが難しく、実力で治安を維持する武士が重宝されるようになります。また、武士同士が血縁や地縁を基盤に結束を強め、独自のネットワークを築いていったことも、彼らの力を高める一因となりました。
源氏が台頭するきっかけは、1051年に始まった「前九年の役」や1083年の「後三年の役」など、東北地方の反乱を武力で鎮圧したことにあります。これにより、武士としての実績を積み、朝廷から信頼を得るようになりました。
平清盛の祖父・平正盛は、源義親の乱の鎮圧(1108年、出雲)や瀬戸内海の海賊平定などで功績を挙げ、白河上皇の信任を得て院政に接近しました。武士として中央での地位を確立し、平氏の台頭の礎を築いた人物です。
鎌倉時代に起きた主な出来事(流れを年表で整理)
年 | 出来事 | 内容 |
---|---|---|
1185年 | 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡 | 源義経が活躍、平家が滅ぶ |
1192年 | 頼朝が征夷大将軍に | 鎌倉幕府が正式に発足 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が幕府に反乱 → 鎌倉幕府の権力が確立 |
1232年 | 御成敗式目(ごせいばいしきもく)制定 | 日本初の武士のための法律 |
1274年・1281年 | 元寇(蒙古襲来) | モンゴル軍が襲来するも撃退(文永の役・弘安の役) |
1333年 | 鎌倉幕府滅亡 | 後醍醐天皇と新田義貞が鎌倉を攻め落とす |
中央政界での実権をめぐって源氏と平氏という二大武士勢力が対立を深めていきます。12世紀中頃には、平清盛が台頭し、平氏政権を樹立しました。清盛は娘を天皇(安徳天皇)の母とすることで外戚としての地位を確保し、朝廷内での影響力を強め、事実上の武家政権を築きました。しかしその支配は貴族的な性格が強く、また平氏による専横に対する不満も各地で高まりました。
これに対抗したのが源頼朝を中心とする源氏です。源氏は治承・寿永の乱(1180〜1185年)を通じて平氏との戦いに勝利し、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。頼朝はその後、朝廷から征夷大将軍に任命され、1192年に鎌倉幕府を開きます。これは、日本で初めて武士による本格的な政権が誕生した瞬間であり、中央の貴族支配から地方武士による実力支配への大転換を意味しました。
このようにして、藤原氏は政治的主導権を失い、源氏と平氏の争いを経て、武士の時代が本格的に幕を開けたのです。
鎌倉時代の特徴|どんな社会だった?
◆ 武士による政治支配
中央に幕府(将軍)+地方には守護・地頭
朝廷と幕府の「二重権力構造」
鎌倉時代に守護・地頭が置かれたのは、源頼朝が全国に幕府の支配を広げるためです。守護は治安維持、地頭は年貢徴収や土地管理を担い、武士による地方支配の体制を整える役割を果たしました。
◆ 北条氏による執権政治
頼朝の死後、将軍は形だけの存在に
北条氏が「執権(しっけん)」として実権を握る
北条時宗の時代に元寇を迎える
北条氏は、源頼朝の死後に将軍の後見役「執権」となり、将軍を補佐する名目で実権を掌握しました。将軍を形式化し、自らが政治の実力者となることで、鎌倉幕府の支配を主導していきました
源頼朝の死後(1199年)、将軍家が弱体化した主な理由は、後継者の若さと未熟さ、そして御家人たちとの対立にあります。2代将軍となった源頼家は18歳と若く、独断で政務を行おうとしたため、有力御家人との関係が悪化しました。頼朝の妻・北条政子とその父・時政らは、頼家の独走を危険視し、政権から排除します。その後、3代将軍源実朝が就任しますが、若くして暗殺され、源氏の血筋は絶えます。これにより将軍家の権威は大きく失われ、幕府の実権は北条氏を中心とした「執権」に移っていくことになりました。
鎌倉時代の終わり|なぜ幕府は滅びたのか?
元寇(1274年・1281年)の撃退は成功しましたが、その後の恩賞(報酬)を出すための新たな土地が得られず、多くの武士が幕府に不満を持ち始めます。
さらに、将軍の権威低下と北条氏の専横、そして後醍醐天皇による倒幕運動が重なり、1333年、新田義貞が鎌倉を攻め落として鎌倉幕府は滅亡。
後醍醐天皇が倒幕を目指した理由は、天皇自らが政治の実権を握る「親政」を実現するためです。鎌倉幕府のもとでは、朝廷は形式的な存在に過ぎず、実際の政治は幕府が握っていました。特に北条氏による執権政治では、将軍さえも傀儡であり、天皇の権威はさらに低下していました。後醍醐天皇はこれを不満とし、自ら政治を動かしたいという強い意志を持っていました。また、天皇中心の新しい政治体制(建武の新政)を構想しており、その実現のためには幕府の打倒が不可欠でした。そのため、彼は討幕計画を立て、幕府に対抗する武士たちと手を組み、最終的に鎌倉幕府を滅ぼすに至りました。
その後、日本は**南北朝時代(室町時代の前期)**へと移行していきます。
まとめ|鎌倉時代は「武士が初めて日本を治めた」時代
鎌倉時代は、1185年から1333年までの約150年間。
源頼朝が幕府を開き、それまでの貴族中心の政治から、武士中心の社会へと大きく舵を切った時代でした。
日本初の幕府=武士政権
北条氏による実権支配と武士法(御成敗式目)
元寇による国難と武士団の忠誠
朝廷との対立から滅亡へ
「鎌倉時代はいつからいつまで?」という問いの答えは、単なる年号ではなく、日本の統治システムが大きく変わった時代のはじまりと終わりを示しています。
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