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飛鳥時代ってどんな時代?主要な出来事をわかりやすく解説!

「飛鳥時代 どんな時代?」と検索してこの記事にたどり着いたあなたへ。飛鳥時代(592年〜710年)は、日本が古代国家へと大きく舵を切った激動の時代です。今回は、飛鳥時代に起きた主要な出来事を時系列でわかりやすくまとめながら、この時代の全体像をつかめるように紹介します。

目次

飛鳥時代の始まり:推古天皇の即位(592年)

飛鳥時代の幕開けは、女性初の天皇である推古天皇が即位した592年からとされています。奈良県の飛鳥地方が政治の中心だったことから、この時代は「飛鳥時代」と呼ばれます。

推古天皇の政治を支えたのが甥の聖徳太子。彼の登場によって、日本は大きく変わり始めます。

聖徳太子と政治改革(593年〜622年)

聖徳太子は摂政として、当時の日本を改革するさまざまな政策を行いました。

冠位十二階(603年):能力や功績によって役職を与える制度。

十七条憲法(604年):官僚の道徳と政治の基本理念を定めた。

遣隋使の派遣(607年):「日出づる処の天子〜」の国書で有名。

これにより、中国(隋)との外交が始まり、国家体制の整備が進みました。仏教の振興や寺院建設(法隆寺など)もこの時期に進められ、文化面でも飛鳥文化が花開きます。

冠位十二階の目的(603年制定)

  1. 氏(うじ)に頼らない人材登用制度の確立
    • それまでの日本では、政治や役職は「氏(うじ)」(血縁的な一族)によって決まっていました。しかし、聖徳太子は能力や功績に応じて人材を登用する仕組みを整えるため、冠位十二階を設けました。

  2. 官僚制度の整備と序列化
    • 12の階級に分け、色や名前で冠を区別することで、役人の地位を明確にし、統治機構の整備を図りました。

  3. 中国(隋)の制度を手本にした中央集権国家への第一歩
    • 当時の中国・隋の制度を参考に、日本でも天皇中心の体制を作る意図がありました。

十七条の憲法の目的(604年制定)

  1. 役人に対する道徳・行動規範の提示
    • 憲法といっても現代の法体系とは違い、十七条の憲法は役人たちに向けた倫理や心得を示したものです。

    • 「和をもって貴しとなす」「三宝(仏法僧)を敬え」など、仏教や儒教の考えに基づいて秩序を説きました。


  2. 国家の安定と統治の円滑化
    • 多くの有力豪族を従わせ、天皇のもとに統一された政治を行うため、共通の価値観や行動指針を示す必要がありました。


  3. 仏教的・儒教的思想を国家統治に取り入れる
    • 仏教によって精神的統一を図り、儒教によって官僚制の規律を確立しようとしたのです。


国際情勢が後押しした法制度の整備と中央集権化

古墳時代の終盤から飛鳥時代にかけて、日本国内で法制度の整備が進められた背景には、朝鮮半島や隋との緊張を含む国際情勢がありました。

特に当時、朝鮮半島南部では**百済(くだら)と新羅(しらぎ)**が激しく対立しており、親日的だった百済を支援する形で、日本もこの争いに巻き込まれていきます。

実際、『日本書紀』(720年)や『古事記』(712年)には、

  • 百済からの使者や渡来人が日本に頻繁に来訪したこと
  • 日本が百済に援軍を派遣したこと

などが数多く記されています。

さらに、**日本に仏教を伝えたのも百済の聖明王(せいめいおう)**であり、文化的なつながりも非常に深かったことがわかります。

こうした外交・軍事面での緊張や国際的な関係の中で、

「国家としてのまとまり」=中央集権体制の強化が必要とされたのです。

このような状況の中、聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法などの法整備を進め、体制の強化を図りました。
さらに、日本の国際的な地位向上を目指して、遣隋使(けんずいし)として小野妹子(おののいもこ)らを隋へ派遣したのも、この時期の重要な外交政策の一環です。

仏教の広がりと蘇我氏の台頭

6世紀後半から7世紀初頭にかけて、朝鮮半島の百済から伝わった仏教が日本に定着していきます。これを後押ししたのが有力豪族の蘇我氏。

彼らは仏教を通じて政権を握り、寺院を建立しながら権威を高めていきました。中でも蘇我馬子は推古天皇や聖徳太子と協力し、仏教国家の礎を築きました。

蘇我氏の専横とクーデター:大化の改新(645年)

しかし、蘇我氏の権力があまりにも強くなりすぎたことは、やがて朝廷内に大きな反発を招きました。

蘇我入鹿(そがのいるか)は、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)とも深い対立関係にありました。入鹿の祖父・蘇我馬子(そがのうまこ)はかつて、仏教の普及や中央集権的な国家体制の構築において、聖徳太子と二人三脚で改革を進めた存在です。

しかし、聖徳太子の死後、情勢は一変します。蘇我氏は太子の一族(いわゆる「厩戸王家」)を皇位継承のライバルとして警戒し始めます。なかでも山背大兄王は、推古天皇の死後、次代の天皇候補として最有力と目されていた人物でした。

蘇我入鹿は、自らの意向に沿う天皇を即位させるため、山背大兄王の排除を画策。『日本書紀』によれば、643年、入鹿は軍勢を率いて山背大兄王の拠点・斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃しました。王は逃走を試みましたが、最終的には自害に追い込まれ、ここに厩戸王家は断絶することになります。

この衝撃的な事件により、朝廷内外では「蘇我氏の専横、ついにここまで来たか」という空気が一気に高まります。これを危機ととらえた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)は翌645年、入鹿を朝廷の場で暗殺。さらにその父・蘇我蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡します。

――これが、日本の政治史を大きく転換させた「乙巳の変(いっしのへん)」です。

この政変をきっかけに始まったのが、日本史上初の本格的な政治改革「大化の改新」でした。

🔥乙巳の変と大化の改新


✅ ① 乙巳の変(いっしのへん)とは?【645年】

  • **中大兄皇子(のちの天智天皇)中臣鎌足(のちの藤原鎌足)**が、
  • 政権を私物化していた**蘇我入鹿(そがのいるか)**を暗殺した事件。
  • 父の**蘇我蝦夷(そがのえみし)**も自害し、蘇我氏の中央政界からの完全排除が実現。

👉 これがヤマト政権内の実力豪族による「権力集中」を崩した革命的事件です。

🔥乙巳の変が起きた背景とは?蘇我氏の専横と国際情勢の変化

乙巳の変(いっしのへん)が起きた最大の背景は、蘇我氏による専制的な政治支配にありました。

当時の**蘇我入鹿(いるか)**は、父・**蘇我蝦夷(えみし)**とともに朝廷の実権をほぼ独占していました。
天皇の人事さえも左右するほどの権力を持ち、「天皇の上に蘇我氏がいる」と言われるような状況が生まれていたのです。

その権力を背景に、蘇我氏は朝廷内で勝手な振る舞いを重ね、**天皇を形式的な存在=傀儡(かいらい)**とし、政治を私物化していきました。

こうした事態に危機感を強めたのが、中大兄皇子と**中臣鎌足(なかとみのかまたり)**です。
彼らは「王権の正当性を守るためには、蘇我氏を排除するしかない」と考えるようになったのです。


その後の動き:難波遷都と改革の始まり

乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺され、その父・蘇我蝦夷も自害したことで、長年にわたる蘇我氏の専横体制は崩壊しました。これにより、朝廷の主導権は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)を中心とする改革派の手に移ります。

中大兄皇子は自らは即位せず、実権を握る皇太子としての立場を選び、叔父にあたる軽皇子(かるのみこ)を天皇に推挙しました。こうして即位したのが、後の**孝徳天皇(こうとくてんのう)**です。

孝徳天皇と中大兄皇子は、都をそれまでの飛鳥から難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや、現在の大阪市)へと遷しました。この遷都には、明確な政治的意図がありました。

飛鳥は古くから有力豪族が根を張る保守的な土地で、改革の推進には不向きでした。一方、難波は政治的なしがらみが少なく、まっさらな状態で中央集権体制を築くには理想的な環境でした。さらに、難波は瀬戸内海に面し、唐や新羅との外交・交易の玄関口としても機能していたため、外国使節の受け入れや遣唐使・遣新羅使の派遣にも最適な立地でした。

また、この遷都には象徴的な意味も込められていました。飛鳥の都を離れ、難波という新天地を選ぶことで、蘇我氏が牛耳っていた古い政治体制からの決別を内外に示したのです。難波の宮は、それまでの内向きの都づくりとは異なり、日本初の本格的な対外開放型の都として位置づけられました。

このように、難波への遷都は単なる地理的な移動ではなく、改革と律令国家建設という新たな国家ビジョンの出発点を象徴するものでした。

✅ ② 大化の改新(たいかのかいしん)とは?【乙巳の変の直後から始まる改革】

  • 乙巳の変で蘇我氏を排除した直後、中大兄皇子らは**「新しい政治体制」を築くための改革**に着手。
  • その改革の総称が**「大化の改新」**。
  • 「大化」というのは、日本最初の元号(645年に制定)でもあります。

大化の改新は645年に始まった日本最初の本格的な政治改革であり、天皇中心の中央集権国家へと日本が大きく舵を切る転換点です。乙巳の変で蘇我氏が排除された後、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)を中心に行われた一連の政治改革です。


📋大化の改新で行われた主な改革内容

項目名内容目的・意義
公地公民制(こうちこうみんせい)土地と人民を国家(天皇)のものとする制度。豪族の私有を否定。豪族の支配を弱め、天皇中心の国家体制を確立する
国郡制(こくぐんせい)全国を「国」「郡」「郷」に分け、中央から役人を派遣。地方を天皇の命令が届く行政単位に再編成
戸籍・計帳の整備人口と土地を把握するための戸籍と課税台帳を作成。豪族任せだった徴税や土地管理を、国家主導に切り替える
班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)※後の導入土地を6年ごとに農民へ公平に支給する制度の準備が始まる土地の公平な分配と人口管理のための基盤づくり
蔭位制(おんいせい)貴族の子孫に一定の位階を保障。家柄と能力を考慮する官位制度。有力豪族の反発を抑えながら官僚制を整備
元号の制定(大化)日本初の元号「大化(たいか)」を制定(645年)中華文明を意識し、日本も「国家」として格式を備える
朝廷の機構整備中央官庁の整備、八省百官体制、律令制度の下準備など天皇を頂点とする律令国家の枠組みづくり

※班田収授法そのものは後の制度ですが、その準備となる土地・人口調査がこの時期に始まったと考えられています。


このように大化の改新は、日本を豪族が支配する「古い時代」から、天皇中心の中央集権国家へと導く第一歩でした。

✅ まとめ:乙巳の変と大化の改新の関係

名称内容年代関係性
乙巳の変蘇我入鹿の暗殺(政変)645年大化の改新の発端
大化の改新中央集権化をめざす改革645年以降政変後の制度的改革

乙巳の変は**「壊す」事件(蘇我氏の打倒)
大化の改新は
「つくる」改革(中央集権国家の基礎)**とも言えます。

天武天皇と持統天皇の統治(672年〜)

乙巳の変と大化の改新によって、いったんは政治改革が進み、朝廷は安定へと向かいました。しかしその後、再び皇位継承をめぐる重大な対立が起こります。

それが、**672年に発生した「壬申の乱(じんしんのらん)」**です。

この戦いは、日本史上最大規模の皇位継承争いによる内乱であり、以後の王権体制を決定づける歴史の大転換点となりました。


🔥 壬申の乱の背景

戦いの直接のきっかけは、天智天皇(中大兄皇子)の死です。
後継者としては、その子である**大友皇子(おおとものおうじ)**が皇太子とされていましたが、正式な即位儀礼は行われていませんでした。

一方、天智天皇の弟である**大海人皇子(おおあまのおうじ)**にも有力な皇位継承権があり、実績・人望・有力豪族の支持という点で非常に強い立場にありました。


⚖ 継承ルールの不在が争いを生んだ

当時の日本には、皇位継承に関する明文化されたルール(法制度)は存在せず、血筋や年齢だけでなく、政治情勢・豪族の支持・個人の実績などが大きな決め手となっていました。

  • 大海人皇子:天智天皇の弟。政治・軍事での実績と人望が厚く、有力豪族の支持を受けていた。
  • 大友皇子:天智天皇の嫡子で、正統な後継者と目されていたが、経験や政治基盤は不十分だった。

このようにどちらも皇位継承の正統性を主張できる状況だったため、朝廷内外で対立が深まり、ついに武力衝突へと発展します。


⚔ 壬申の乱の結果とその意義

吉野に退いた大海人皇子は挙兵し、東国(現在の岐阜・三重方面)で兵力を集め、西国の大友皇子軍と対決。各地を巻き込んだ全国的な戦いの末、大友皇子は敗北し、自害しました。

勝利した大海人皇子は翌年(673年)即位し、天武天皇となります

この勝利をもって、天武天皇は皇統の再編に乗り出し、天皇中心の中央集権国家体制の確立をさらに強化しました。壬申の乱は、日本の政治構造を大きく変える契機となったのです。

勝利した天武天皇は、飛鳥浄御原宮で即位し、天皇権力の強化に乗り出し、次のような施策を進めました:

・天皇中心の統治体制を明文化

・戸籍制度の整備

・八色の姓による貴族の階層化

その後を継いだ持統天皇は、都を飛鳥から藤原京へ移し、日本初の本格的な都市国家を目指しました。

日本初の本格的都城:藤原京(694年)

694年、持統天皇は藤原京に遷都します。

藤原京は、中国の長安をモデルにした碁盤目状の計画都市で、政庁や寺院などが整然と配置され、律令国家体制の中心として機能しました。

この都の完成は、日本が本格的な中央集権国家としての形を整えた証です。

飛鳥時代の終わり:平城京遷都(710年)

710年、都はさらに北へ移され、平城京(奈良市)が建設されます。これをもって飛鳥時代は終わり、次の奈良時代へと入ります。

飛鳥時代は、仏教の定着、中央集権体制の確立、外交の開始、律令制度の基礎固めなど、日本の国のかたちができあがった時代でした。

まとめ:飛鳥時代は「国づくり」の出発点

飛鳥時代(592年~710年)は、日本が古代国家としての土台を築いた大変革の時代です。

この時代には、以下のような重要な出来事が次々と起こりました。

  • 聖徳太子による政治改革(冠位十二階・十七条憲法)で、官僚制と道徳の基本が整えられ、
  • 蘇我氏の台頭と専横が政局を揺るがし、
  • それに対抗するかたちで起きた乙巳の変(645年)と大化の改新により、天皇中心の中央集権国家へ大きく舵を切りました。
  • その後、**皇位継承をめぐる最大の内乱「壬申の乱」(672年)**が勃発。大海人皇子(のちの天武天皇)が勝利し、皇統と政治体制が再編されます。
  • 天武天皇と持統天皇は、**法制度・戸籍・都城(藤原京)**など、律令国家体制の基盤を固めました。

これらの政治改革・文化の興隆・内政と外交の調整は、いずれも現代日本の制度や文化の原型に深く関わっています。

710年の平城京遷都をもって飛鳥時代は終わり、奈良時代へと移ります。


飛鳥時代は、単に「昔あった時代」ではありません。
それは、**日本が天皇を中心とした国家として歩み始め、制度・文化・信仰が形づくられていった「国づくり」の出発点」**なのです。

「飛鳥時代 どんな時代?」と興味をもってここまで読んでくださったあなたへ。
この時代の理解は、現代の日本社会の成り立ちを知る第一歩になるはずです。

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